モデラーな日々 とれいんスタッフブログ

月刊とれいんスタッフの,模型と格闘していたりしていなかったりする日々をお送りします.

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6月18日に大阪高島屋東別館のことを書いたが,その後,別の探し物をしていた時,肝心なものは見つからず,2年前に撮影した,同じ大阪堺筋の古い建物の写真が発掘された.
 高麗橋(こうらいばし)というのは,それこそ古い大阪の中心地である,いわゆる船場(せんば)の北部に位置し,薬問屋の集まる道修町は堺筋の両側に拡がっているのだ.そうして,堺筋という通りは,昭和の初めに御堂筋が出来上がるまでの,大阪の南北の通りのメインだったのだから,多くの象徴的な建物が存在していて当然のエリアなのである.
 戦災をかいくぐり,再開発の波にもめげずに残された建物たち.子供の頃,この辺りに来る用事があったりしたものだから,記憶にある建物も少なくない.けれど,もちろんその頃には当たり前の風景だったから“歴史の目”で観察することなどなかったわけだし,“日本一”などという行き先の市電の窓から眺めるだけということも多かった.あれからもう40年以上が経っている.様変わりぶりも大きい.
 古いものでは小西の旧宅(コニシボンドのコニシである),ちょっと東へ御堂筋のほうへ歩けば,近代的なビルの中に古い商家がそっくりと収まった,妙な光景に出会うこともできる.塩昆布などの老舗である神宗(かんそう)の本店で,建物そのものはレプリカなのだが,古い船場の風情を味わうことができる.
 いわゆる近代建築は,もう明治から昭和にかけての建物が数え切れないほどある.嬉しいのは,そのほとんど全てが,今もなお現役であること.順不同に挙げるなら,三井銀行大阪支店,生駒時計店,日本基督教団浪花教会,高麗橋野村ビルディング,そして今はフレンチレストランに変身している,元大阪教育生命保険(のちに大中証券)…….
 どれもこれも個性的で,統一感がないといえばいえるのだけれど,それはそれで,また趣きが,と思う,近ごろの僕なのである.

それらの中から今回写真をお目に掛けるのは,僕の記憶になかった建物.それは八木通商という会社のビル.住所的には今橋2丁目に存在している.近頃は便利なもので,インターネットの海へ泳ぎだしてみれば,基本的な情報は集まってくる.

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北東から見た八木通商ビル.3階部分は明らかに増築.1,2階部分はとても自然なテラコッタ仕上げに見えるのだが…….

それによれば,設計者は,なんと辰野金吾であるという.辰野金吾といえば鉄道好きには東京駅だけれど,大阪のこのあたりでは,なんといっても中之島の中央公会堂である.その目と鼻の先に,こんな洒落た建物を設計していたとは……と思ったのだけれど,実は最初は煉瓦仕上げだったのだそうだ.
 完成したのは大正7/1918年.大阪農工銀行(後の日本勧業銀行の一部…現在のみずほ銀行の一部)として建設されたものだという.そして,昭和4/1929年に國枝 博という建築家によって大規模な改修が行なわれ,今の姿になったのだという.そんなこと,知らなければそのまま通り過ぎてしまいそうなほど,自然な改築といえる.しかし,新築からわずか10年での大規模改築,早すぎないか?なにか問題があったのかと勘繰ってしまう.

現在の姿で,なによりも特徴的なのは窓や扉の回り.アラベスク模様というのだろうか,過剰ともいえるその装飾は,子供心にも印象的だったはずなのに,なぜ,記憶に残らなかったのだろう.もしかしたら,すぐ近くの,いかにもクラシックの香りが強い,煉瓦造りの“大中証券”に心を奪われたのだろうか.実はその大中証券も辰野金吾なのだそうだけれど.

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実になんとも豊かな表情を持った窓であることか. 昭和4/1929年といえば,世の中の趨勢は既に“モダン”であっただろうに.

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玄関口の上部の装飾.照明器具とも妙にマッチしているのが不思議.

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建物の北面.隣のビルとの境目から西面を覗き見れば,もしかしたらオリジナルかもしれない煉瓦の外壁を見ることができる.

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先週水曜のブログで紹介されていた“ホースシュー・カーブ”.実は私も8年前に平井編集長(当時)に連れられて訪れたことがあります.
 前 出の通り,ここはかつてペンシルヴァニア鉄道(PRR)のシカゴ行メインルートがアラゲニー山塊を越えるために敷設された超巨大オメガカーブです.PRR は1968年の合併でペンセントラルとなり,さらに1976年にはコンレイルに統合され,1999年に今度はCSXとノーフォーク・サザン鉄道(NS)に よるコンレイル分割によって,この場所を含めて元PRRだった路線の大半がNSとなりました.
 よって私の訪れた2001年は,コンレイルからNSに移管されて2年ほどの時期であり,青いコンレイルと真っ黒なNSの機関車に混じって,合併による塗色変更を考慮してか下地塗装のままで走っている灰一色の機関車まで盛んに見かけることができました.
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ホースシュー・カーブ内側に作られた公園では老若男女が思い思いに行き交う列車を眺めていました.公園の中央にはPRRのGP9ディーゼルが保存されています.
 先頭のコンレイル塗装はキャブ側面の窓下部分のみ白く塗りつぶしてNSの車番がレタリングされていますが,この姿は現在でもまだまだ見られるようですね.

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グレーの下地塗装のまま走っているNo.9630.なんの飾り気もないこのカラースキーム(?)は新しい塗装デザインが未定だった合併前に,暫定的に出場した姿だったようです.HS-20090803-03
山を下ってきた東行きのアムトラック列車.P42DCの三重連の後,延々とマテリアルハンドリングカーが続き,客車は編成後部に申し訳程度に数輛つながっている程度でした.HS-20090803-04
サミットのガリツェン・トンネルを抜け出たダブルスタック中心の貨物列車.この勾配区間では3340,3347の2輛のSD40-2が背中合わせの重連で補機として使われていました.

 やはり米国は鉄道の規格が大きいのはもちろん,景色も雄大なので絵になりますね.久々に古い写真を見返しているうちに,また行きたくなってきました.近いうちに実現できれば良いのですが…

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みなさま.レイル69号 仙山線物語 はもうお読みいただけましたでしょうか.この本の編集されるまでの経緯,内容の紹介については先月の前里のブログをお読み頂くとして,私の仙山線の思い出話を少し……
  今回レイルの制作で沢山のモノクロ写真の補正をしていて,心を奪われてしまったのが28ページの柏木璋一さんの山寺駅俯瞰の写真です.昭和29年の撮影で すが,現在とあまり変わっていない!!というのが驚きでした,とくに駅舎の形やホーム上の建物の位置,駅前の様子,また駅の向こう側の斜面に広がる畑など も・・・

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立石寺から望遠レンズで撮影した,山寺駅とその周辺の様子.46年前の風景とどう変わっているでしょうか.平成12/2000年7月2日

実 は,仙山線に3度も乗り通したことがあるのですが,そのうち2回は山寺で下車して立石寺にお参りしています.今まで訪れたことがないところを中心にいつも 計画を立てる私が,2度も同じ場所に行くというのはやっぱり,なにか引きつけられるものがあるからなのだと思います.新幹線を使えば日帰りできるという気 軽さもあるかとは思いますが……
 最初に訪れたのは平成12年の7月2日でした.当時どのような行程だったかメモを見返してみたら,仙台から快速 仙山1号で9時03分に山寺に到着して,10時34分の仙山3号で山寺を出発し,山形に出ていました.1時間半で山寺を登って降りてきたことになるのです が,最初なので上までどのくらい時間がかかるか予測がつかず,とにかくがむしゃらに1000段以上あるという石段を登ったのを覚えています.下山してくる 方から「あともう少しだよ! 頑張って!」と声をかけられながら,心拍数がどんどん上がっていき,滝のように汗をかきながら登りつめました.
 五大堂にたどり着いて眼下を見下ろすと,あまりの絶景に涙で景色がかすんでしまい,その場にしばし座り込んでしまいました.
 帰りはゆっくりと名物の「力こんにゃく」を食べながら,松尾芭蕉が「閑かさや岩にしみ入蝉の声」を詠んだのもちょうどこの頃なんだなぁと思いながら,蝉の声は聞こえるか耳をすませながら下山したのでした.

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山寺名物「力こんにゃく」 ひと串 ¥100

そ れ以来この景色はいつも心のよりどころというか,大好きな日本の風景の一つです.苦労して登ったからこそ見られる景色は,癖になる「眺め」とでもいいま しょうか.もちろんその景色の中に「鉄道」があるからというのも理由の一つですが...何度でも訪れたくなってしまう場所です.

2度目の山 寺訪問は平成17年の10月でした.未乗車である陸羽東線と左沢線の乗りつぶし旅行を計画していたのですが,行程に山寺を入れたのはほんの数日前だったと 思います.なんだかあの景色が「呼んで」いるような気がしたんですね……. 紅葉には少し早かったのですがその時は時間をたっぷり取って,前回行かれなかった奥の院まできちんとお参りして帰ってきました.
 この文章を書くために写真を出して見ていたら,また行きたくなってしまいました.今度は雪の山寺を見てみたいなぁ. 

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立石寺五大堂からの眺望.立谷川の鉄橋を列車が渡ろうとしている.直前まで雨が降っていて,山間から沸きあがる霧が幻想的でした. 平成17/2005年10月23日

今回のレイル69号がみなさまのそれぞれの仙山線の想い出の再確認・再発見につながればいいなと願っています.一人でも多くの方にお読み頂きたいと思います.

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なんだか,先週23日に有楽町を紹介してから東海道づいてしまった.
 今回は有楽町から少し南下して品川.子供のころ東京の鉄道路線図を見ていて疑問に感じたことの一つに,“なんで品川より南にあるのに北品川なの?”というのがあった.街道としての東海道の品川宿の位置が,今の品川駅とは全く異なっていることによるものであって,今の品川駅は,本当ならば高輪駅といった方が正しい,実際,京浜電車の開業時の駅名は高輪だし,品川駅のあるところは品川区ではなく港区である……ということを,今では知っている.東海道の品川宿は京急の北品川駅から南,新馬場から青物横丁にかけて展開していたということを含めて.
 その東海道が,東海道本線や山手線,新幹線の上を越すあたりに橋が3本架かっている.そのうちの1本が,八ツ山橋.我が国で最初に鉄道が開通した区間に架けられた,最初の鉄道跨線橋が,この八ツ山橋なのだ.
 今の八ツ山橋は,昭和60/1985年に架け替えられた,ごく普通の鋼鈑橋である.ただ唯一,欄干が装飾性豊かな鋳物製であるのが特徴といえる.この欄干は,いうまでもなく先代のアーチトラス橋に付属する欄干そのもの,あるいはその複製.最新デザインの機能本位な欄干でいいのだけれど,おそらくは設計した人の心の中で,“どうせなら”という洒落心が勝ったのだろう.その洒落心を立証するかのように,橋の東詰めには,先代の橋の親柱と,オリジナルの鋳物製欄干が保存されている.
 その土台部分には“大正三年六月”という日付が刻まれている.その右側には“弐千五百七拾四年(二千五百七十四年かもしれない)と刻まれている.これは神武天皇が即位した年を元年とする“皇紀”.明治5/1872年に,古事記と日本書紀の記述を元に制定された紀元である.第2次世界大戦前に,天皇を一層神格化しようとして普及がはかられたとされているが,大正初期には,このように普通に使われていたのである.もっとも,八幡製鉄所のレールの製造年標記が,昭和16/1941年になって西暦から皇紀に変更されたのは,やはり“皇紀を優先して使うべし”との指針に沿ったものに違いないが.ちなみに八幡製レールの皇紀標記は,戦争が終わってからも昭和23/1948年まで続く.なんとも奇妙なことだけれど.

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保存されている先代の八ツ山橋の親柱.基礎部分の裏側に架橋年月が元号と皇紀で刻まれている.トラスが3組並んでいた先代の八ツ山橋のうち,京急側の2組は昭和の初めに“増築”されたものらしい.

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親柱の横に保存されている,先代の八ツ山橋の欄干.今の欄干は,このオリジナルをそのまま使ったのか,それともオリジナルから型を取った複製なのか.いずれにしても嬉しくなる“お遊び”ではないか.

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東海道本線の海側,八ツ山橋と新八ツ山橋の間の道路.画面右側の歩道端に見える石柱には東海道の宿場町の名前が順番に刻まれている.かつてはここに新橋と京橋の親柱が保存されていたというが,今はない.

八ツ山橋のすぐ隣りには京浜急行のトラス橋が架かっている.昭和8/1933年4月に北品川と高輪(現在の品川)の間が専用軌道化された時に建造された長さ48メートルのワーレントラス橋である.
 とはいえ,現役のトラス橋を,桁と同じ高さで間近に観察できるという例は,そうそうにはない.そういう意味で,貴重な存在といえるのではなかろうか.

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八ツ山橋の道路越しに見た京急のトラス橋.かつてはこの位置から八ツ山橋の3組のアーチトラスを含め,4組のトラス橋が見えた.

東海道新幹線開業以前には,さらに南下した切り通しの部分に,品鶴線の大きなトラス橋がかかっていたが,これは今では架け替えられて存在しない.
 と,なれば,歴史好きの足が向くのは京急の北品川駅裏側を経由して大森海岸あたりまで続く旧東海道の散策ということになるが,それはこのブログの本題ではない.ということで,今回はここで店じまい.

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前回のカーブは野球チームでしたが、今回は本物のカーブ。かの有名なホースシュー・カーブです。
 ここは全米に2442カ所ある米国国務省認定の「National Histric Landmark」になっています。ちなみにカリフォルニアのテハチャピ・ループにも「Histric Landmark」という碑が経っていますが、こちらはカリフォルニア州認定のもののようで、こちらの方が「格上」なのでしょう。
 ホース シュー・カーブとは、文字通り馬の蹄鉄の形をした線路で、日本ではオメガカーブということが多いですね。ペンシルバニア鉄道がハリスバーグからピッツバー グに向かう途中には険しいアラゲニー山脈を越えなければなりません。ロッキー山脈のような荒々しい山ではないのですが、この高低差を克服するのは大変なこ とだったようです。
 さまざまな変遷を経て、このルートができたのが1854年のことでした。ちょうど二つの沢が合流する谷の一番奥に巨大な築堤 を築いて出来上がったこのカーブは、平均勾配約20‰、曲線半径約200m、中心角220°というものになりました。このカーブを曲がった先で、今度は反 対向きに大きくカーブしてしばらく走った先の、ガリツェンという町にあるトンネルが峠になります。
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この写真の建物がビジター達のカーブへの入口で、ここで入場料を払わなければなりません。しっかりと作られたコンクリートの階段を上れば、綺麗に整備された まるで公園のような平坦な広場に出ます。柵があって線路にはもちろん入れませんが、ベンチに座ってのんびり列車の通過を待つことができます。
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写真でごらんの通り、この公園で列車を待つ人たちは実にのんびりしたものです。芝生での昼寝も気持ちいい、とても良い天気です。それでも、列車がくれば、皆それぞれにカメラを向けたり、貨車の数を数えたりと、それぞれの楽しみを見いだしているようです。
 もちろん私もカメラはそこそこに、のんびりした2時間ほどをここで過ごしました。

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