6月12日,阪神電鉄新型車5700系取材のため,久し振りに尼崎を訪問した.お手伝いしていただく来住憲司さんと早めに待ち合わせて駅の近くで昼ご飯ということになった.
 駅の高架下には,昭和の時代に京阪神間で育った人には懐かしい“パルナスのピロシキ”の伝統を守る“モンパルナス” というお店があることを,今回初めて来住さんから教わったものの,ピロシキでは昼ご飯にならない……(品書きにピラフやカレー,スパゲッティもあること は,あとで知った).ということで,“古来の尼崎”であり尼崎城の城址公園もある海側にも,駅の北側の商店街とはひと味違うお店があるかも知れないと一周 してみることにした.
 結果として,案に相違して食品に関するお店は,古来の製法を守るという醤油屋さんを発見したに留まり,“やっぱり北側に行こう”となった.
 その途上で目に引っ掛かったのが,銘板付きの屏.

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立派な銘板がついた古びた屏.地面に近いところに連続して存在する“えぐれ”が,米軍戦闘機の機関銃による弾痕の可能性があるという.

そしてこの塀が守っていた建物が,現在の尼崎市役所開明庁舎.
 どうみても元来の役所の建物ではなくて,むしろ学校の校舎としか思えない.3年前のここで紹介した,大阪ミナミの旧精華小学校校舎より,いくぶん近代的に見えるから,昭和10/1935年前後のデザインかも…….

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建物の南面に円弧を描く壁で囲まれた玄関と階段室が設けられており,玄関ホールの上部には半円状の柱で支えられたように見える大時計.校庭への出入口脇には大きな丸窓.そして,いさぎよいほどに直線で纏められた主部.並みのデザインセンスではない.

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北へのびた建物は西へL形に折れ曲っている.そちら側の階段室は建物に埋めこまれ,窓は14個の正方形が並ぶ.

来住さんがその場でスマートフォンで検索したところ,昭和12/1937年の建築で,もとは開明尋常小学校の校舎だったのだそうだ.どんぴしゃり.
 以下は,帰宅後にインターネットで調べて知った,この建物の由来と現状である.

まず,建設されたのは昭和12/1937年.昭和9/1934年に京阪神間を襲った室戸台風によって校舎が損壊したための新築だったそうだ.近隣の尼崎高等小学校や尼崎高等女学校も同じ事業により建設され,デザインに共通性があるという.尼崎市のウェブサイトによれば,設計は尼崎市営繕課となっている.
  戦後は引き続いて尼崎市立開明小学校として使用されたが,平成16/2003年に城内小学校と統合,明城小学校となり城内小学校の敷地に移転した.校庭は 開明公園として公開,建物は一部復元の上で市役所の庁舎として活用されることになった.平成19/2007年に国の登録有形文化財に登録.
 なお,開明小学校は元を辿れば,明治3/1870年開校の藩校・正業館にまで遡るという.

さて,この日の目的地である阪神尼崎車庫には,もっと古い建造物が現役で生き続けている.それは阪神電鉄資材部西倉庫.
  立派な煉瓦造りで,阪神電車に乗って海側の車窓を眺めていたら,いやでも目に入る.長い間,明治37/1904年の阪神電鉄開業時に建築された“変電所” の建物だと思い込んでいたのだが,実は“火力発電所”だったのだそうだ.でも,実質的に二棟ある建物のうち,どちらかは変電所だったはずと思うのだが,ど うだろう.

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西側から見た,端正なイギリス積みの元発電所.背後の背の高い建物も阪神電鉄の施設だが,この建物に趣きを揃えたシックな煉瓦色となっているだけでなく,形も近似性のあるデザインにしているところが心憎い.

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南面の壁.地面に近い1階部分の窓は埋められているが,埋めるに際しても,ちゃんとイギリス積みとしているのは,職人の心意気だったのだろう.明治から戦災も震災もくぐり抜けて生き続けてきたのだから,これからも末永く大切にしていただけることを願っている.