吉田健一という名前に覚えのある方は,ここの読者にどのぐらいおられるだろうか.
 僕自身はといえば,高校生あたりから二十代にかけていくつかの作品を読んだ覚えがある.小説家というより随筆家という印象が残っている人である.
 長らく作品に触れる機会がなかったのだけれど,つい先日,山手線のとある駅での待ち合わせで,少し早く到着したものだから,駅前の本屋さんを“散歩”していたところで目に止まったのが,“汽車旅の酒”だった.
 今年の2月に初版が刊行されたばかりの中公文庫.いくつかの作品の冒頭部を拾い読みしてみても“あぁ読んだことがある”という記憶は蘇らなかったから,たぶん,本当に初めてか,少なくとも実質的に初めて触れるものだろうと,勘定場に足を運んだことである.
  いや,わざわざ確かめなくても,と思われるかもしれない.けれど,過去には,最初の頁だけを眺めて“持っていない”と思って買って帰ったら,実は同じ本が 2冊いや3冊も……という,苦い思いをしたことが,何度もあるものだから,真ん中あたりの頁も,ちらっと読んでみる必要があるのだ.もちろん,長編小説の 場合には,最終章を開くことはしないけれど.

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吉田健一“汽車旅の酒”カバー.図版は,駒井哲郎という人の“食卓I”という作品だそうである.食事よりもアルコールの瓶やグラスのほうが多いような気がするけれど,それはそれで,この本にはとってもふさわしい絵だと思う.中公文庫版で定価は本体800円+税.

さて中身はといえば,完全な随筆から小説ともいえる作品まで,数頁単位の,掌編を中心とする20以上もの作品が集積されたオムニバス.時代は,昭和20年代半ばから東海道新幹線開業のころまで.
  最初の“旅”では,旅への憧れが語られ,続く“金沢”では,東京駅浜松で米原経由の金沢行きの夜行列車で一夜を過ごす話が展開する.折りしも北陸新幹線の 金沢開業直後でもあり,“そういえば昔は米原経由が当たり前だったよなあ”と,思い出させられた……自分自身でその列車を体験したことはないけれど.
 そこでは,東海道新幹線開業以前の,東京から東海道を西へ向かう列車の時間距離が,酒とその肴の分量によって描かれているのに,強く引き込まれてしまった.

話 は長旅ばかりではない.八高線の児玉へ出掛ける章では地元の酒蔵の話が出てきて,思わず“今でもあるのなら出掛けていって買い求めたい”と思わせたり,駅 弁が主題の稿では,駅弁そのもの話からフランス料理や英国の料理についてまで展開して,これまら引きずり込まれてしまう.
 大宮総合車両センターで撮影したEF55を鉄道博物館へ 搬入する,先週末の取材での昼食に,館内で販売されていた鳥取の“かにめし”を選んだのには,この本に…北陸のものだったけれど…“蟹鮨”が登場していた ことが影響したのかもしれない.蒸機が現役だった頃に足繁く通った山陰への途上,夜明け前の鳥取駅で買い求めた記憶が蘇ったからでもあるが.

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昭和40年代には,ごく普通の経木で組んだ折箱だったと思うが,今ではこんな立派な容器…自然環境下で微生物に分解する,部分分解樹脂でできているのだそうだ…におさまっている,鳥取の“かにめし”.税込み1,140円.提供するのはアベ鳥取堂.40年以上も前に鳥取駅のホームで買い求めたのもこの店のものだったかどうか,記憶にはないが,創業明治43年というのだから,多分,そうなのだろう.そういえば鳥取,智頭急行が開業する前のことだから20年も訪れていないことになる.

頁を来るたびに引き込まれる文章の魅力魔力の強さ.こんな本に出逢ったのは久し振りかもしれない.内容に共感する点が多い…というか,ほとんどの項目で考えや意見が一致してしまったのにも,本当に,自分自身でびっくり.
 言葉遣いや送り仮名には独特のクセがあって,最初はちょっと馴染めないかもしれない.でも,それを簡単に乗り越えてしまうことができる大きな力が,この本にはあったのだ.
 だから,本屋さんで見掛けられたらちょっと手に取ってみてくださいと,自信をもっていってしまうのである.