先週先々週のここで,“行き掛けの駄賃”的な話題を展開した.その目的地とはどこだったのかといえば,とれいん8月号をご覧くださった方なら既にご承知のとおり.那珂川町にある“那珂川清流鉄道保存会”.
 この保存会,とにかくこれまで日の当ることが少なかったジャンルの鉄道車輛や施設を精力的に収集,保存修復されているのである.その活動振りたるや,まったく頭が下がるばかりである.詳しくは,本文90頁からの記事を,とくとご覧いただきたい.

さて,この日はいろいろと収穫が多く,ちょっと寄り道しながらの帰路でも,思わぬ遭遇があった.それは…….

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それは茂木町の県道27号線を南へ向けて走っていたところで,目の前に突如として現われた築堤.これはどう見たって,鉄道のための築堤である.下を潜る県道のポータルはコンクリート製の立派なもので両側の擁壁は丁寧な施工の石積み.残念ながら銘板は存在しなかった.

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左手は山腹に融け込みつつあるが,右側はご覧の通りの風景.ということで,歩みをとめて,この築堤の先を追ってみたところ……

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こんな風景が展開した.今にもC11や8620あたりの牽く列車が姿を見せそうな築堤ではないか.画面左が,さきほどの県道とのクロス地点である.

さて,この風景を眺めながら頭の中の引き出しから引っ張り出した記憶は“国鉄真岡線の茂木から茨城県へ向けての国鉄線建設計画があって,一部は着工していた.その跡は茂木駅構内にも見ることができる”というお話.
  ということで,帰宅後に調べてみたら,それは“国鉄長倉線”といい,区間は栃木県の茂木と茨城県の長倉との間.距離は約11キロ.現代の地図を見れば“長 倉”には鉱山や工場や大きな町があるわけでもなく,なぜ?なのだが,かつては水戸市内からこの長倉まで,茨城鉄道が鉄道を敷設する計画があって,それと接 続させるつもりだったらしい.元を辿れば,「茨城県水戸ヨリ阿野沢ヲ経テ東野付近ニ至ル鉄道及阿野沢ヨリ分岐シテ栃木県茂木ニ至ル鉄道」という計画だった のが,水戸側の建設を茨城鉄道が進めて茨城線として御前山(ごぜんやま)までを昭和2/1927年に開通させ,引き続いて長倉まで……で,昭和10 /1935年に免許が失効.栃木側は茨城側の免許が失効した後の,昭和12/1937年に鉄道省によって着工し,中川というところまではかなり進捗したも のの,戦時体制の強化を理由として中断,結局のところ工事が再開されることはなかった…….

というのが,この,栃木県芳賀郡茂木町後郷というところに70年間も佇んできた築堤が抱いている歴史というわけである.ちなみにこのあたりは後郷(うらごう と読むらしい)という駅の建設予定地だったらしい.そういわれてみれば,そのように見えなくもない…….

鉄道に縁がない山村風景……と思っていても,まったく油断がならないものだということを再認識させられた1日であった.