なんだか,先週23日に有楽町を紹介してから東海道づいてしまった.
 今回は有楽町から少し南下して品川.子供のころ東京の鉄道路線図を見ていて疑問に感じたことの一つに,“なんで品川より南にあるのに北品川なの?”というのがあった.街道としての東海道の品川宿の位置が,今の品川駅とは全く異なっていることによるものであって,今の品川駅は,本当ならば高輪駅といった方が正しい,実際,京浜電車の開業時の駅名は高輪だし,品川駅のあるところは品川区ではなく港区である……ということを,今では知っている.東海道の品川宿は京急の北品川駅から南,新馬場から青物横丁にかけて展開していたということを含めて.
 その東海道が,東海道本線や山手線,新幹線の上を越すあたりに橋が3本架かっている.そのうちの1本が,八ツ山橋.我が国で最初に鉄道が開通した区間に架けられた,最初の鉄道跨線橋が,この八ツ山橋なのだ.
 今の八ツ山橋は,昭和60/1985年に架け替えられた,ごく普通の鋼鈑橋である.ただ唯一,欄干が装飾性豊かな鋳物製であるのが特徴といえる.この欄干は,いうまでもなく先代のアーチトラス橋に付属する欄干そのもの,あるいはその複製.最新デザインの機能本位な欄干でいいのだけれど,おそらくは設計した人の心の中で,“どうせなら”という洒落心が勝ったのだろう.その洒落心を立証するかのように,橋の東詰めには,先代の橋の親柱と,オリジナルの鋳物製欄干が保存されている.
 その土台部分には“大正三年六月”という日付が刻まれている.その右側には“弐千五百七拾四年(二千五百七十四年かもしれない)と刻まれている.これは神武天皇が即位した年を元年とする“皇紀”.明治5/1872年に,古事記と日本書紀の記述を元に制定された紀元である.第2次世界大戦前に,天皇を一層神格化しようとして普及がはかられたとされているが,大正初期には,このように普通に使われていたのである.もっとも,八幡製鉄所のレールの製造年標記が,昭和16/1941年になって西暦から皇紀に変更されたのは,やはり“皇紀を優先して使うべし”との指針に沿ったものに違いないが.ちなみに八幡製レールの皇紀標記は,戦争が終わってからも昭和23/1948年まで続く.なんとも奇妙なことだけれど.

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保存されている先代の八ツ山橋の親柱.基礎部分の裏側に架橋年月が元号と皇紀で刻まれている.トラスが3組並んでいた先代の八ツ山橋のうち,京急側の2組は昭和の初めに“増築”されたものらしい.

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親柱の横に保存されている,先代の八ツ山橋の欄干.今の欄干は,このオリジナルをそのまま使ったのか,それともオリジナルから型を取った複製なのか.いずれにしても嬉しくなる“お遊び”ではないか.

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東海道本線の海側,八ツ山橋と新八ツ山橋の間の道路.画面右側の歩道端に見える石柱には東海道の宿場町の名前が順番に刻まれている.かつてはここに新橋と京橋の親柱が保存されていたというが,今はない.

八ツ山橋のすぐ隣りには京浜急行のトラス橋が架かっている.昭和8/1933年4月に北品川と高輪(現在の品川)の間が専用軌道化された時に建造された長さ48メートルのワーレントラス橋である.
 とはいえ,現役のトラス橋を,桁と同じ高さで間近に観察できるという例は,そうそうにはない.そういう意味で,貴重な存在といえるのではなかろうか.

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八ツ山橋の道路越しに見た京急のトラス橋.かつてはこの位置から八ツ山橋の3組のアーチトラスを含め,4組のトラス橋が見えた.

東海道新幹線開業以前には,さらに南下した切り通しの部分に,品鶴線の大きなトラス橋がかかっていたが,これは今では架け替えられて存在しない.
 と,なれば,歴史好きの足が向くのは京急の北品川駅裏側を経由して大森海岸あたりまで続く旧東海道の散策ということになるが,それはこのブログの本題ではない.ということで,今回はここで店じまい.