先週のここでは,短い距離ながら273系“やくも”に,岡山県内で乗車したことをお話した.
今週は,本当に久し振りの米子とその周辺を訪問したお話である.
……僕の記憶によれば,前回の米子訪問は2002年4月のこと.インターネット上で鉄道情報・交流サイトとしては今や最古参ともいえる“鉄道フォーラム”の15周年記念行事として岡山から松江までキハ181系貸切列車に乗り,翌日,米子在住のモデラーである西本輝昭さんを訪問した.その様子は当時のとれいん誌上でご覧いただいた.
その前といえば,381系電車に“パノラマグリーン車”クロ380の取材で後藤工場を訪問した時だろうか.この時は,盛んに試運転が行なわれていた智頭急行線の沿線を上郡から順に北上し,鳥取で泊まって米子へ足を延ばした……あるいは順序が逆かもしれないが.平成6/1994年秋のことである.おや,ちょうど30年前のことではないか.その時点では出雲市駅はまだ地平だったが,松江駅と鳥取駅は既に高架となっていた.
そんなこんな,4月12日に伯備線を北上して米子駅に到着したのは,春の陽が日御碕の西の日本海に没する頃だった.
話には聞いていたが,すっかりコンパクトになった米子駅本屋.大きなガラスのモニュメントが印象的.実はこの画面の左には,銀河鉄道のようなモニュメントもあるのだが,その存在に気付かなかったというお粗末.
右を見れば,かつての米子鉄道管理局庁舎が.実はこの建物を記録したくて,それで頭がいっぱいとなり,左を向くということに,気が回らなかった…….
今週は,本当に久し振りの米子とその周辺を訪問したお話である.
……僕の記憶によれば,前回の米子訪問は2002年4月のこと.インターネット上で鉄道情報・交流サイトとしては今や最古参ともいえる“鉄道フォーラム”の15周年記念行事として岡山から松江までキハ181系貸切列車に乗り,翌日,米子在住のモデラーである西本輝昭さんを訪問した.その様子は当時のとれいん誌上でご覧いただいた.
その前といえば,381系電車に“パノラマグリーン車”クロ380の取材で後藤工場を訪問した時だろうか.この時は,盛んに試運転が行なわれていた智頭急行線の沿線を上郡から順に北上し,鳥取で泊まって米子へ足を延ばした……あるいは順序が逆かもしれないが.平成6/1994年秋のことである.おや,ちょうど30年前のことではないか.その時点では出雲市駅はまだ地平だったが,松江駅と鳥取駅は既に高架となっていた.
そんなこんな,4月12日に伯備線を北上して米子駅に到着したのは,春の陽が日御碕の西の日本海に没する頃だった.
話には聞いていたが,すっかりコンパクトになった米子駅本屋.大きなガラスのモニュメントが印象的.実はこの画面の左には,銀河鉄道のようなモニュメントもあるのだが,その存在に気付かなかったというお粗末.
右を見れば,かつての米子鉄道管理局庁舎が.実はこの建物を記録したくて,それで頭がいっぱいとなり,左を向くということに,気が回らなかった…….
一方,振り返って駅前を眺めるということには思いが至っていて,C5743 の第2動輪と松葉スポークの車輪が置かれている様子は,写真を撮った.なお,かつて保存されていたはずのD51 488は安来市内に移動している.(2024.07.05:追記しました)
米子鉄道管理局といえば,昭和40年代半ば,各地の機関車履歴簿閲覧に精を出していた僕には,思い出の庁舎.履歴簿は画面右に見えるビルの用地にあった倉庫に収められていた.C54の履歴簿を発見した時の嬉しさといえば…….福知山の庁舎では地下だったかの倉庫に残されていた,本州最後のC55たちの履歴簿も,調査している.誰に頼まれたわけでもない.“自分の趣味”であった.
僕が通い詰めたころには,米子駅といえば北口しかなかった.今では南北が自由通路で結ばれている.その自由通路から西を見たのがこの風景.給炭塔や給水設備などは残っているはずもないが,画面右奥に転車台と扇形庫の端っこが見える.手前の線路のピットは,蒸機時代にはアシュピットだったかもしれない.
米子といえば,先週にもお話し,今月号の“とれいん”でのCoffee Cupでも記した通り,僕が初めて遠征した旅で,最初に降りた駅である.境線ホームではC11牽引の混合列車やキハ07を見て,機関区も訪問した.戦災復旧客車転用の救援車に相まみえたり,収穫の多い1時間だった.
この時が最初で,山陰本線から蒸機がなくなるまで,なんど通ったことだろう.山陰均一周遊券を駆使して,米子駅を出発する夜行列車に乗り,西は益田で,南は備後落合で折り返して早朝の米子駅やその周辺に戻ってきたものである.
その時代,コンビニエンスストアなどという存在はなく,乗車前に駅前商店や駅の売店で菓子パンと牛乳を仕入れて一日の糧とするのが,常だった.
どんなパンや牛乳を買ったのか……,ある時に気が付いたのが,“白バラ”という名前.この牛乳が鳥取県を代表する“ブランド”であることを認識したのは,実は20年ほど前のことに過ぎない.
そして何年か前,東京のコンビニエンスストアのスイーツ棚に“白バラ牛乳を使った……”を謳い文句とする商品を発見した時の驚きたるや.
さらに,もっとびっくりさせられたのが,今から半年かそのぐらい前,自宅近所のスーパーマーケットで,大山の山麓に集う牛の上に描かれた日本海の波,そして“白バラ牛乳”の名前のパックを発見した時である.
ということで,それ以来,我が家の冷蔵庫に“白バラ牛乳”が一定の割合で場所を占めることになったのである.
米子の駅売店ではこんなものも見つけて,思わず買ってしまった.
閑話休題.
米子の駅前に泊まった翌朝は早起きして“サンライズ出雲”や“West Express銀河”を撮り,出雲まで遠征して表紙に使ってもらった写真を撮影し,そして米子へ舞い戻り……訪ねたのは駅前からほど近い道笑町の公園“元町パティオ広場”に保存された客車.
かつて米子駅の裏から出ていた日の丸自動車法勝寺線のフ50である.
いわゆる“マッチ箱”クラスの客車で,ここまで原形の面影をとどめている例は多くない.
明治20/1887年の英国バーミンガム工場製とされ,元は大社宮島鉄道……壮大な名前である……のちの一畑電鉄立久恵線からやってきた車輛である.
ちなみに今年は法勝寺線全通100周年だそうである.
齢140の客車の台枠を,こんなに身近に自由に観察することができる.なんと幸せな環境だろうか.
法勝寺線車輛は,もう1輛保存されている.
南部町の“キナルなんぶ”敷地内に,立派な上屋で守られている.訪問した日は幸いにも車内を公開していて,運転台や客席も観察することができた.
制御器は東洋電機製造のDB1.
この電車は大正11/1922年の日本車輌製で,発注主は駿遠電気(のちの静岡鉄道).池上電鉄(のちの東急電鉄の一部)を経て昭和6/1931年に伯耆の国へやってきた.廃車は,路線廃止と同じ昭和42/1967年のことである.
平成23/2011年に鳥取県の保護文化財に指定され,解体整備を行なって平成26/2014年にそれまでの小学校校庭から現在地に移設されている.整備を担当したのは後藤工業株式会社……というと,どこ?だが,実は本社も事業所も,JR西日本の後藤総合車両所の中にある.といえばおわかりだろう.
僕が通い詰めたころには,米子駅といえば北口しかなかった.今では南北が自由通路で結ばれている.その自由通路から西を見たのがこの風景.給炭塔や給水設備などは残っているはずもないが,画面右奥に転車台と扇形庫の端っこが見える.手前の線路のピットは,蒸機時代にはアシュピットだったかもしれない.
米子といえば,先週にもお話し,今月号の“とれいん”でのCoffee Cupでも記した通り,僕が初めて遠征した旅で,最初に降りた駅である.境線ホームではC11牽引の混合列車やキハ07を見て,機関区も訪問した.戦災復旧客車転用の救援車に相まみえたり,収穫の多い1時間だった.
この時が最初で,山陰本線から蒸機がなくなるまで,なんど通ったことだろう.山陰均一周遊券を駆使して,米子駅を出発する夜行列車に乗り,西は益田で,南は備後落合で折り返して早朝の米子駅やその周辺に戻ってきたものである.
その時代,コンビニエンスストアなどという存在はなく,乗車前に駅前商店や駅の売店で菓子パンと牛乳を仕入れて一日の糧とするのが,常だった.
どんなパンや牛乳を買ったのか……,ある時に気が付いたのが,“白バラ”という名前.この牛乳が鳥取県を代表する“ブランド”であることを認識したのは,実は20年ほど前のことに過ぎない.
そして何年か前,東京のコンビニエンスストアのスイーツ棚に“白バラ牛乳を使った……”を謳い文句とする商品を発見した時の驚きたるや.
さらに,もっとびっくりさせられたのが,今から半年かそのぐらい前,自宅近所のスーパーマーケットで,大山の山麓に集う牛の上に描かれた日本海の波,そして“白バラ牛乳”の名前のパックを発見した時である.
ということで,それ以来,我が家の冷蔵庫に“白バラ牛乳”が一定の割合で場所を占めることになったのである.
米子の駅売店ではこんなものも見つけて,思わず買ってしまった.
閑話休題.
米子の駅前に泊まった翌朝は早起きして“サンライズ出雲”や“West Express銀河”を撮り,出雲まで遠征して表紙に使ってもらった写真を撮影し,そして米子へ舞い戻り……訪ねたのは駅前からほど近い道笑町の公園“元町パティオ広場”に保存された客車.
かつて米子駅の裏から出ていた日の丸自動車法勝寺線のフ50である.
いわゆる“マッチ箱”クラスの客車で,ここまで原形の面影をとどめている例は多くない.
明治20/1887年の英国バーミンガム工場製とされ,元は大社宮島鉄道……壮大な名前である……のちの一畑電鉄立久恵線からやってきた車輛である.
ちなみに今年は法勝寺線全通100周年だそうである.
齢140の客車の台枠を,こんなに身近に自由に観察することができる.なんと幸せな環境だろうか.
法勝寺線車輛は,もう1輛保存されている.
デハ203である.
南部町の“キナルなんぶ”敷地内に,立派な上屋で守られている.訪問した日は幸いにも車内を公開していて,運転台や客席も観察することができた.
制御器は東洋電機製造のDB1.
この電車は大正11/1922年の日本車輌製で,発注主は駿遠電気(のちの静岡鉄道).池上電鉄(のちの東急電鉄の一部)を経て昭和6/1931年に伯耆の国へやってきた.廃車は,路線廃止と同じ昭和42/1967年のことである.
平成23/2011年に鳥取県の保護文化財に指定され,解体整備を行なって平成26/2014年にそれまでの小学校校庭から現在地に移設されている.整備を担当したのは後藤工業株式会社……というと,どこ?だが,実は本社も事業所も,JR西日本の後藤総合車両所の中にある.といえばおわかりだろう.
各地それぞれの智恵と工夫によって,鉄道の現在も未来も,そして過去も守られていることを再認識した半日であった.
※2024.07.05:C57動輪とD51の保存について追記