出来上がってから早くもひと月以上が経ったレイルのNo.101.
最初は蔵重信隆さんの関西本線撮影記.なにしろ神戸から50CCのバイク(正確には原動機付自転車か)で幾多の峠を越えて加太へ達し,さらには伊勢にまで足を延ばしたというのだから,それだけでもすごい.続いては田邉幸男さんの撮影記.
そこから一転して早川昭文さんによる近鉄大阪線の今昔撮影譚.
これらがこの時期に揃ったというのは,ほとんど偶然の結果である.最初は早川さんからの,“近鉄大阪線の山の中は,おもしろいところやねぇ”というお話だっただろうか.そのうちに…とお話しているうちに,蔵重さんが50CCのバイクで関西本線撮影に挑まれたことがあるのを知り,地域的にも一山違いで同じだし,ということで後送が纏まりつつあるところへ,田邊さんからも“加太はいかが?”というご提案があった.
僕自身,そのどちらも,数少ないながらも撮影に赴いたことがあるし,なにより,河田耕一さんにレイルへ寄稿していただけることになったきっかけの島ヶ原駅のことが,蔵重さんの思い出に幅なれていたのだから,これは…ということで,皆さんに同じ列車に乗っていただいた次第.
本が出来上がってから,ある方に“往年の鉄道ファンに連載されていた,野口昭雄さんの《ライバルスケッチ》を思い出しましたよ”といわれたのだが,さすが慧眼の士.子供のころに読んだ,あの記事が頭に浮かんでいたのに,間違いない.
とはいえ,僕自身はこの“加太の大築堤”で撮影したことはない.別にマムシが怖い,という訳でもなかったが.単に歩くのが面倒だった,というだけのことかもしれない.加太-中在家信号場 昭和44/1969年9月 写真:蔵重信隆
ではどこで…ということになるのだが,好きだったのが柘植駅を亀山山方面へ発車する風景.大きな木造の信号扱所がよいアクセントになっていたものである.細江正章さんが同じ場所でD50の発車を撮影しておられたのを知るのは,もう少し後のことである.
蔵重さんの撮影行には,昭和44/1969年春時点での亀山機関区の蒸気機関車運用表を添えさせたいただいたが,これは,その頃にいろいろお願いして集めた資料のうちの一部である.そのお話はまた,いずれそのうち.
関西本線の南の山向こうには,昭和のはじめから強力モーターの唸りが響きわたっている.参宮急行改め,近鉄大阪線である.
こちらは,本文にも記した通り,2200がそろそろ姿を消すという話しを聞いて,当時の高校生としては“はるばる”という気持ちで三本松まで出掛けたのだった.
朝,何時ごろに家を出たのだろうか.とにかく秋の早い夕暮れまで,存分にとはいえないまでも,ほぼ一日歩き回り,満足して帰宅したのを覚えている.
2200とともに,ビスタ・カーは撮影対象だった.とはいえ,運用を知っていたわけでもなく,偶然だけが頼り.こんな写真を撮ることができたのだから,ニコニコしていたのに違いない.ちなみにこの鉄橋の渡る谷間は“地獄谷”というのだそうだ.印象に残ったのだろう,並行する国道橋の欄干に銘板があったのを写していた.三本松-室生口大野 昭和47/1972年11月26日 写真:前里 孝
カメラは借り物のマミヤC220.それにアルバイトでもして得たのだろう,なけなしの資金で買ったエクタクロームを1本詰めてのお出かけであった.
三本松の駅.駅舎を撮影したのは覚えていたけれど,駅前にたたずむ小動物の存在は,すっかり記憶から消え去っていた.なんとも凛々しいお犬様ではないか.昭和47/1972年11月26日 写真:前里 孝
レイルの本文にも記した,旧初瀬街道沿いの街並み.今でも面影は充分に残しているようだが.駅舎とともに,“いずれレイアウトを作りたい”気持ちがあっての撮影だった.昭和47/1972年11月26日 写真:前里 孝
ちょっと手前味噌が過ぎたかもしれない.ということで閑話休題.
レイルNo.102の,次のテーマは,三菱大夕張鉄道のダイコンや三菱大夕張鉄道のキューロクを発表された奥山道紀さんによる,士別森林鉄道.士別軌道という名前は,湯口 徹さんの“私鉄紀行 北線路 下巻(レイルNo.22)”に収録されていることもあって,頭にこびりついていたのだけれど,その奥に森林鉄道の路線網があったというのは,ほとんど認識していなかった.お恥ずかしい限りだが.
そんな奥地の森林鉄道の記録が,奥山さんの努力によって,大量に発掘され,整理の上で発表されたわけである.その発表の場としてレイルを使っていただけたことが,とても嬉しい.
少なくとも僕にとってもっとも印象に残った,士別森林鉄道の沿線風景.“神無月の弁天淵(第8工区)”.おそらくはこれまで人跡未踏だっただろう渓谷の脇に,いかにも遠慮がちに敷かれたか細い線路.“自然に挑む”などということはなくて,“自然に寄り添った”線路風景である.開通記念絵葉書から.所蔵:士別市朝日地域活性化施設“まなべーる” 提供:奥山道紀
レイルでは,いかに写真を綺麗に印刷するか,日々努力しているわけだが,ピントが鋭くて粒子の細かい写真ばかりが“美しい写真”ではない.ピントが甘くて粒子が粗く,さらには複写によって元写真のクォリティが甘くなっていたり…そんな写真も,訴えかけて来るものは変らない.“粗くなってしまうよ”などといわれようが,その情報量と迫力を最大限にお伝えすることができる方法で,お目にかけたいと思っている.
次のレイルは4月下旬発売の予定.また,がらっと趣きの違う鉄道情景をお伝えすべく,編集作業真っ盛りの今日この頃である.お楽しみに.
最初は蔵重信隆さんの関西本線撮影記.なにしろ神戸から50CCのバイク(正確には原動機付自転車か)で幾多の峠を越えて加太へ達し,さらには伊勢にまで足を延ばしたというのだから,それだけでもすごい.続いては田邉幸男さんの撮影記.
そこから一転して早川昭文さんによる近鉄大阪線の今昔撮影譚.
これらがこの時期に揃ったというのは,ほとんど偶然の結果である.最初は早川さんからの,“近鉄大阪線の山の中は,おもしろいところやねぇ”というお話だっただろうか.そのうちに…とお話しているうちに,蔵重さんが50CCのバイクで関西本線撮影に挑まれたことがあるのを知り,地域的にも一山違いで同じだし,ということで後送が纏まりつつあるところへ,田邊さんからも“加太はいかが?”というご提案があった.
僕自身,そのどちらも,数少ないながらも撮影に赴いたことがあるし,なにより,河田耕一さんにレイルへ寄稿していただけることになったきっかけの島ヶ原駅のことが,蔵重さんの思い出に幅なれていたのだから,これは…ということで,皆さんに同じ列車に乗っていただいた次第.
本が出来上がってから,ある方に“往年の鉄道ファンに連載されていた,野口昭雄さんの《ライバルスケッチ》を思い出しましたよ”といわれたのだが,さすが慧眼の士.子供のころに読んだ,あの記事が頭に浮かんでいたのに,間違いない.
とはいえ,僕自身はこの“加太の大築堤”で撮影したことはない.別にマムシが怖い,という訳でもなかったが.単に歩くのが面倒だった,というだけのことかもしれない.加太-中在家信号場 昭和44/1969年9月 写真:蔵重信隆
ではどこで…ということになるのだが,好きだったのが柘植駅を亀山山方面へ発車する風景.大きな木造の信号扱所がよいアクセントになっていたものである.細江正章さんが同じ場所でD50の発車を撮影しておられたのを知るのは,もう少し後のことである.
蔵重さんの撮影行には,昭和44/1969年春時点での亀山機関区の蒸気機関車運用表を添えさせたいただいたが,これは,その頃にいろいろお願いして集めた資料のうちの一部である.そのお話はまた,いずれそのうち.
関西本線の南の山向こうには,昭和のはじめから強力モーターの唸りが響きわたっている.参宮急行改め,近鉄大阪線である.
こちらは,本文にも記した通り,2200がそろそろ姿を消すという話しを聞いて,当時の高校生としては“はるばる”という気持ちで三本松まで出掛けたのだった.
朝,何時ごろに家を出たのだろうか.とにかく秋の早い夕暮れまで,存分にとはいえないまでも,ほぼ一日歩き回り,満足して帰宅したのを覚えている.
2200とともに,ビスタ・カーは撮影対象だった.とはいえ,運用を知っていたわけでもなく,偶然だけが頼り.こんな写真を撮ることができたのだから,ニコニコしていたのに違いない.ちなみにこの鉄橋の渡る谷間は“地獄谷”というのだそうだ.印象に残ったのだろう,並行する国道橋の欄干に銘板があったのを写していた.三本松-室生口大野 昭和47/1972年11月26日 写真:前里 孝
カメラは借り物のマミヤC220.それにアルバイトでもして得たのだろう,なけなしの資金で買ったエクタクロームを1本詰めてのお出かけであった.
三本松の駅.駅舎を撮影したのは覚えていたけれど,駅前にたたずむ小動物の存在は,すっかり記憶から消え去っていた.なんとも凛々しいお犬様ではないか.昭和47/1972年11月26日 写真:前里 孝
レイルの本文にも記した,旧初瀬街道沿いの街並み.今でも面影は充分に残しているようだが.駅舎とともに,“いずれレイアウトを作りたい”気持ちがあっての撮影だった.昭和47/1972年11月26日 写真:前里 孝
ちょっと手前味噌が過ぎたかもしれない.ということで閑話休題.
レイルNo.102の,次のテーマは,三菱大夕張鉄道のダイコンや三菱大夕張鉄道のキューロクを発表された奥山道紀さんによる,士別森林鉄道.士別軌道という名前は,湯口 徹さんの“私鉄紀行 北線路 下巻(レイルNo.22)”に収録されていることもあって,頭にこびりついていたのだけれど,その奥に森林鉄道の路線網があったというのは,ほとんど認識していなかった.お恥ずかしい限りだが.
そんな奥地の森林鉄道の記録が,奥山さんの努力によって,大量に発掘され,整理の上で発表されたわけである.その発表の場としてレイルを使っていただけたことが,とても嬉しい.
少なくとも僕にとってもっとも印象に残った,士別森林鉄道の沿線風景.“神無月の弁天淵(第8工区)”.おそらくはこれまで人跡未踏だっただろう渓谷の脇に,いかにも遠慮がちに敷かれたか細い線路.“自然に挑む”などということはなくて,“自然に寄り添った”線路風景である.開通記念絵葉書から.所蔵:士別市朝日地域活性化施設“まなべーる” 提供:奥山道紀
レイルでは,いかに写真を綺麗に印刷するか,日々努力しているわけだが,ピントが鋭くて粒子の細かい写真ばかりが“美しい写真”ではない.ピントが甘くて粒子が粗く,さらには複写によって元写真のクォリティが甘くなっていたり…そんな写真も,訴えかけて来るものは変らない.“粗くなってしまうよ”などといわれようが,その情報量と迫力を最大限にお伝えすることができる方法で,お目にかけたいと思っている.
次のレイルは4月下旬発売の予定.また,がらっと趣きの違う鉄道情景をお伝えすべく,編集作業真っ盛りの今日この頃である.お楽しみに.