【記事・写真:舘田 達也】
こんにちは。『とれいん』で台湾関連の記事を書かせていただいております舘田達也です。いつもご覧いただきありがとうございます。
この度編集部からお声がけをいただき、こちらのブログにも記事を書かせていただくことになりました。台湾のみならず、日本の鉄道などのことも書かせていただこうと思っております。若輩者ですがどうぞよろしくお願いいたします。
春は出会いと別れの季節……とはよく言ったもので、鉄道ファンにとっても毎年この時期は新しい列車と出会い、慣れ親しんだ列車を見送るシーズンです。
この春もJR、私鉄を問わず様々な入れ替わりがあるようで、そうした列車の記録に励んでおられる読者の方もいらっしゃることでしょう。
今年はE351系スーパーあずさの引退が早くから発表されており、小田急ではロマンスカー70000系GSEの運行開始と現役最古参の7000系LSEが1本、引退しました。小田急のウェブサイトによれば残りもあと1年以内に運転終了だそうです。北海道ではスラントノーズの愛称で知られるキハ183系の0番台も引退の時が近いようですし、私が住む大阪でも、昨秋の大阪環状線に続き、阪和線系統(羽衣線)からの103系電車の引退が話題となっています。
それに加えて2月下旬、JR四国から2000系ディーゼルカーの試作車、いわゆる“TSE”編成がこの春のダイヤ改正をもって定期運転を終了し、6月、7月にさよなら運転を行うという発表がありました。
JR四国2000系TSE。車体にもしっかりその名が記されている。
もはや語るまでもないJR四国のディーゼル特急として有名な車輛ですが、少しその概要をおさらいしてみましょう。2000系は四国各線の特急列車の高速化を目指し、ディーゼルカーとして初めて振子装置を搭載して1989年に登場した形式です。試作車の成果を踏まえて1990年から量産車が登場し、キハ181系やキハ185系に代わってJR四国の特急列車の中心的存在に成長しました。1995年以降は時速130㎞運転が可能な、N2000系と呼ばれるグループも登場しています。今回ご紹介するのは1989年に登場した3輛編成の試作車のことで、“Trans Shikoku Experimental”の略で“TSE”という愛称を持っています。デビュー時には『とれいん』誌(1989年6月号No.174)でも、詳細記事が掲載されました。
1990年に小学校に上がった私にとってTSEは、鉄道絵本や図鑑など、子供向けの本で常に見かける新型特急の一つでした。開発目的や採用された技術については理解できない子供でしたが、これまでにない流線形の顔を持つTSEは“黒い顔の未来の特急”して強く印象に残りました。
後に登場した量産車が少し違う表情となったこともあり、独特の顔は特別な一編成ならではのものとして心に刻まれ、四国への旅を誘っていました。家族旅行で四国を訪れた際、確か特急しまんと号だったと思いますが、実際にその姿を見た時は感動したものです。
そんなTSEが引退する。絵本で見たのは少し前の事のようで、もう30年近く前のことです。それだけの月日が流れたのですね……私もこの30年で様々な知識を見聞し、“黒い顔の未来の特急”は、鉄道車輛の歴史の中でも重要な存在であると知りました。
世界初の振子式ディーゼルカー。JR四国とJR総研が開発し、TSEが確立した技術は、その後全国各地で登場した特急型ディーゼルカーにも採用され、非電化区間における特急列車の高速化に貢献しました。
実は台湾でも東部の非電化区間用に振子式ディーゼルカーの自強號を導入する計画があったようです。台湾を一周する幹線の全線電化計画が進んでいだことから、最終的にディーゼルカーではなく電車を導入ことで落ち着きましたが、もしかしたらTSEの兄弟が台湾でも走っていたのかもしれません。
TSEは偉業が評価され、引退後は保存も検討されていると聞きます。今後も出会う機会があるというのは嬉しいことではありますが、やはりTSEは車体を傾かせてカーブを高速で走ることを目的に誕生した車輛です。今ならまだ間に合う……TSEが歩みを止めてしまう前にもう一度会っておきたく、春の四国に向かいました。
今回の旅の目的は、幼い頃の記憶をカメラではっきり記録すること、そしてTSEに乗って高速走行を体感すること。これまで土讃線、高徳線と四国を縦横に走り回ったTSEは、現在予讃線の松山と宇和島を結ぶ特急宇和海で使われており、これがTSEにとって最後の仕事場となります。となると目的地は松山で一択。一か月前まで台湾に住んでいた私にとって、松山といえば台北の隣の地下駅。日本の松山は久しぶりの訪問となりました。
朝の松山駅にTSEがやってきた。私にとって久しぶりの再会だ。
松山駅6時58分。宇和島からの宇和海2号が多くの通勤客を乗せて到着しました。貫通タイプを先頭にした3輛編成。量産車と比べて銀色の面積が多いその顔は、遠目にもTSEであるとはっきり分かります。次の仕事は9時03分発“宇和海7号”。好きなだけ撮れと言わんばかりにホーム真横の留置線に入りました。
留置線に入り次の出番を待つ。
台車などもじっくりと観察できた。左側には車体の変速機と台車を繋ぐ推進軸。これも車体の動きが激しいTSE向けに工夫された装備だ。
量産車で組成された宇和海4号が到着する。同一形式ながら大きく異なる顔つきだ。TSEの貫通扉は板で塞がれている。
通勤ラッシュも落ち着いた8時半過ぎ、宇和海7号として1番線に据え付けられます。約二時間で両側面をたっぷりと記録することができました。
車体の記録もそこそこにして車内に入ります。発車まで20分以上あることもあり、車内にいるのはTSEが目当てのファンだけ。ならば今のうちにと、この車輛ならではの装備を記録し、先頭車2001の前よりの座席を確保しました。
(左上)2001の車内に掲げられたプレート。1990年の鉄道友の会ローレル賞受賞車輛だ。
(右上)日本機械学会賞も受賞している。さり気なく貼られているが、誇らしげだ。
(左下)車輛番号とメーカーズプレート。製造年が“平成1年”となっているのも珍しい。
(右下)キハ185系に引き続き採用された冷房の個別送風口。TSEならではの装備だ。
9時03分、定刻に松山を発車し、宇和島まで1時間20分ほどの旅が始まります。伊予市までは架線の下を走りますが、その先は非電化区間。比較的建設時期が新しい内子線でも、山間部ということで随所にカーブが存在しますが、そこは振子式車輛の本領発揮といったところ。迫るカーブに怖気る様子もなく、車体を傾けてスイスイと走り抜けます。少しの傾きのあと、さらに深く傾いていく様子は、このTSEが初めて採用した“制御付き振子装置”ならではのもの。先頭車にいると、前も風景を眺めながら振子装置の動きを楽しむことができます。
もちろん他の2000系に乗っても同じ体験が出来るのですが、やはりこの装置を実用化した車輛で体験すると、気分としても格別なものです。
次々迫るカーブも何のその。右へ左へ車体を大きく傾けて突き進んでいく。
10時24分、飽きることのない景色と傾斜を堪能して宇和島に到着しました。時間があれば予土線に乗り換え、のんびりした汽車旅を楽しみたいところですが、夜には大阪に帰らねばならず、また旅の目的がTSEであることもありますので、そのままTSEに乗って戻ることにしました。
二種類の座席が搭載されている2101。その違いは後ろから見るとよく分かる。奥が本来の座席、手前が後から設置された座席だ。枕カバーの色は指定席・自由席の区別で青が指定席となっている。
復路は反対側の先頭車、2101へ。前よりは指定席となっていることもあり、後ろよりの自由席区画に座ります。この車輛の客席後部はフリースペースとしてソファーが設置され、高速化に向けた試験が思わしくなかった場合は団体列車用としても使えるように考えられていました。
団体列車転用案は実現されることなく、本格的に量産車が増備されるようになると、このソファーは撤去され、座席が設置されました。改造部には新しいタイプの座席が設置されており、TSE本来の座席とは違うものであることが一目でわかります。この一角だけ座席が異なる……鉄道ファンなら何かしら怪しさを感じて興味を持つところですね。せっかくなのでこの改造部分に座ってみました。
TSE目的の旅ではあるものの、愛媛まで来たならちょっと寄っておきたいところがあり、八幡浜で下車。キハ54形の各駅停車に乗り換えて西大洲から歩くこと15分。伊予鉄南予バスの大洲営業所を訪問しました。
伊予大洲で出会った御年38歳のバス、日野K-RL321型。月に数回は運用に入る現役の車輛だ。
ここには全国でも数台になってしまった“古くて丸いバス”が予備車として残されています。バスの寿命は15年から20年と言われ、1990年代の車輛ですら貴重な存在になりつつある中、ここに残る車輛は1980年製造。事務所で来意を告げると快く歓迎してくださり、ピットに止まる老翁“日野RL”型を見せてもらうことができました。月に数日、他の車輛の検査の日などに運用に入るほか、昨今ではバスファンによる貸切運転に登板することもあるんだとか。温暖な南予地方でのんびり余生を過ごす日野RLの末永い活躍を祈ってやみません。
伊予大洲から鉄道に戻り、TSEの二時間後となる宇和海号……今度は量産車の中でもアンパンマン列車がやってきましたのでこれで松山に戻ります。
すっかり定着したアンパンマン列車。大人をも笑顔にさせてくれる列車だ。
マンガが描かれた子供向け列車と侮るなかれ……2000年の初登場から幾度かのデザイン変更を経て、今や四国全エリアで見ることができるようになったアンパンマン列車。数多くのバリエーションが見られますが、メインで使われているのは2000系で、TSEから始まる2000系の歴史の中でも欠かすことの出来ない存在となっています。
流線形先頭車。TSEと比べるとヘッドマークと黄色い帶が入ったが、これだけでかなり印象が異なる。
松山に到着すると、ちょうど宇和島行きの宇和海17号が発車の準備をしているところでした。宇和島側の先頭車は流線形の2005。普通車のみのモノクラス編成が基本の特急宇和海ですが、予備車としてグリーン席の付いた流線形の先頭車が準備されています。あくまで予備として通常は使われない車輛ということで、遭遇できたのは幸運でした。同じ場所でTSEと量産車の写真が用意できましたので、その違いをご覧ください。
(左)TSEの2001。ドア窓、ドアの色や運転席窓の周りに入る青色が特徴的。号車札や座席表示もいわゆるサボだ。
(右)量産車の2005。ドアは窓が小さいものに交換されているほか、号車、座席はLEDの表示器で表示される。
(左上)こちらはTSEの高松側先頭車、2101を宇和島側から。ドアの特徴の他、種別・行先表示が横長のものとなっている。またドア右側の部分にはかつて“TRANS SHIKOKU EXPERIMENTAL”の文字が記されていた。
(右上)量産車2117。種別・行先表示が二段式なっており、JR SHIKOKUの文字が入っている。
(左下)写真は2001の側面だが、うっすらとかつて記されていた文字が読み取れる。
1時間後にはTSEが松山に戻ってくるということで、そのままホームで往来する列車を眺めていましたが、次の宇和海19号の案内が始まった頃からにわかにカメラを構えたファンの姿が目立つようになりました。
私と同じく、到着するTSE目当てなのかと気にしていなかったのですが、それにしては少し様子がおかしい。何だろうなと思っていると……N2000系が宇和海のヘッドマークを掲げて姿を現しました。
転属したばかりのN2000系が早速運用入り。TSEと並ぶ姿も見ることができた。
主に高徳線の特急うずしおで使われているN2000系のうち、3輛が訪問前日に松山に回送されてきた……という情報は把握しており、これが引退するTSEの代わりであることは何となく想像できていたのですが、TSE引退前から走り始めるとは思わず、ただただ驚くばかり。そうこうするうちに宇和島からのTSEも到着し、両車を一枚の写真に収めることができました。
次の列車が夜間となるTSEは朝と同じく留置線に入って待機状態に。近くではアンパンマン列車の2000系も休んでおり、じっくりと車輛そのものを眺めたり、量産車との差異を観察することができました。
跨線橋から先頭車2001の屋根上を眺める。
電化区間の主力、8000系と並ぶTSE。後から登場した8000系は途中で塗装が変わってイメージチェンジをしたが、TSEは登場時の姿に近い状態を保ち続けた。
1989年の登場から29年。自身の成果を反映して誕生した量産車とともに、常に四国の特急列車の代表格として活躍を続けたTSEは、3月17日、今朝の宇和海2号で宇和島から松山までを走り、定期列車としての営業運転を終えました。
世界初と言われる機構や技術を採用した車輛は、試験運転のみで生涯を終えるものが多く、TSEのように大きな改造もなく、量産車と一緒に長い間活躍を続ける車輛はそう多くありません。それだけTSEは完成度の高い試作車輛だったということでしょう。
宇和島駅で発車を待つTSE。四国の日常に溶け込み、走り続けた日々が今、終わろうとしている。
四国を駆け抜けた“黒い顔の未来の特急”の29年間の活躍に、惜しみない拍手を送りたいと思います。
こんにちは。『とれいん』で台湾関連の記事を書かせていただいております舘田達也です。いつもご覧いただきありがとうございます。
この度編集部からお声がけをいただき、こちらのブログにも記事を書かせていただくことになりました。台湾のみならず、日本の鉄道などのことも書かせていただこうと思っております。若輩者ですがどうぞよろしくお願いいたします。
春は出会いと別れの季節……とはよく言ったもので、鉄道ファンにとっても毎年この時期は新しい列車と出会い、慣れ親しんだ列車を見送るシーズンです。
この春もJR、私鉄を問わず様々な入れ替わりがあるようで、そうした列車の記録に励んでおられる読者の方もいらっしゃることでしょう。
今年はE351系スーパーあずさの引退が早くから発表されており、小田急ではロマンスカー70000系GSEの運行開始と現役最古参の7000系LSEが1本、引退しました。小田急のウェブサイトによれば残りもあと1年以内に運転終了だそうです。北海道ではスラントノーズの愛称で知られるキハ183系の0番台も引退の時が近いようですし、私が住む大阪でも、昨秋の大阪環状線に続き、阪和線系統(羽衣線)からの103系電車の引退が話題となっています。
それに加えて2月下旬、JR四国から2000系ディーゼルカーの試作車、いわゆる“TSE”編成がこの春のダイヤ改正をもって定期運転を終了し、6月、7月にさよなら運転を行うという発表がありました。
JR四国2000系TSE。車体にもしっかりその名が記されている。
もはや語るまでもないJR四国のディーゼル特急として有名な車輛ですが、少しその概要をおさらいしてみましょう。2000系は四国各線の特急列車の高速化を目指し、ディーゼルカーとして初めて振子装置を搭載して1989年に登場した形式です。試作車の成果を踏まえて1990年から量産車が登場し、キハ181系やキハ185系に代わってJR四国の特急列車の中心的存在に成長しました。1995年以降は時速130㎞運転が可能な、N2000系と呼ばれるグループも登場しています。今回ご紹介するのは1989年に登場した3輛編成の試作車のことで、“Trans Shikoku Experimental”の略で“TSE”という愛称を持っています。デビュー時には『とれいん』誌(1989年6月号No.174)でも、詳細記事が掲載されました。
1990年に小学校に上がった私にとってTSEは、鉄道絵本や図鑑など、子供向けの本で常に見かける新型特急の一つでした。開発目的や採用された技術については理解できない子供でしたが、これまでにない流線形の顔を持つTSEは“黒い顔の未来の特急”して強く印象に残りました。
後に登場した量産車が少し違う表情となったこともあり、独特の顔は特別な一編成ならではのものとして心に刻まれ、四国への旅を誘っていました。家族旅行で四国を訪れた際、確か特急しまんと号だったと思いますが、実際にその姿を見た時は感動したものです。
そんなTSEが引退する。絵本で見たのは少し前の事のようで、もう30年近く前のことです。それだけの月日が流れたのですね……私もこの30年で様々な知識を見聞し、“黒い顔の未来の特急”は、鉄道車輛の歴史の中でも重要な存在であると知りました。
世界初の振子式ディーゼルカー。JR四国とJR総研が開発し、TSEが確立した技術は、その後全国各地で登場した特急型ディーゼルカーにも採用され、非電化区間における特急列車の高速化に貢献しました。
実は台湾でも東部の非電化区間用に振子式ディーゼルカーの自強號を導入する計画があったようです。台湾を一周する幹線の全線電化計画が進んでいだことから、最終的にディーゼルカーではなく電車を導入ことで落ち着きましたが、もしかしたらTSEの兄弟が台湾でも走っていたのかもしれません。
TSEは偉業が評価され、引退後は保存も検討されていると聞きます。今後も出会う機会があるというのは嬉しいことではありますが、やはりTSEは車体を傾かせてカーブを高速で走ることを目的に誕生した車輛です。今ならまだ間に合う……TSEが歩みを止めてしまう前にもう一度会っておきたく、春の四国に向かいました。
今回の旅の目的は、幼い頃の記憶をカメラではっきり記録すること、そしてTSEに乗って高速走行を体感すること。これまで土讃線、高徳線と四国を縦横に走り回ったTSEは、現在予讃線の松山と宇和島を結ぶ特急宇和海で使われており、これがTSEにとって最後の仕事場となります。となると目的地は松山で一択。一か月前まで台湾に住んでいた私にとって、松山といえば台北の隣の地下駅。日本の松山は久しぶりの訪問となりました。
朝の松山駅にTSEがやってきた。私にとって久しぶりの再会だ。
松山駅6時58分。宇和島からの宇和海2号が多くの通勤客を乗せて到着しました。貫通タイプを先頭にした3輛編成。量産車と比べて銀色の面積が多いその顔は、遠目にもTSEであるとはっきり分かります。次の仕事は9時03分発“宇和海7号”。好きなだけ撮れと言わんばかりにホーム真横の留置線に入りました。
留置線に入り次の出番を待つ。
台車などもじっくりと観察できた。左側には車体の変速機と台車を繋ぐ推進軸。これも車体の動きが激しいTSE向けに工夫された装備だ。
量産車で組成された宇和海4号が到着する。同一形式ながら大きく異なる顔つきだ。TSEの貫通扉は板で塞がれている。
通勤ラッシュも落ち着いた8時半過ぎ、宇和海7号として1番線に据え付けられます。約二時間で両側面をたっぷりと記録することができました。
車体の記録もそこそこにして車内に入ります。発車まで20分以上あることもあり、車内にいるのはTSEが目当てのファンだけ。ならば今のうちにと、この車輛ならではの装備を記録し、先頭車2001の前よりの座席を確保しました。
(左上)2001の車内に掲げられたプレート。1990年の鉄道友の会ローレル賞受賞車輛だ。
(右上)日本機械学会賞も受賞している。さり気なく貼られているが、誇らしげだ。
(左下)車輛番号とメーカーズプレート。製造年が“平成1年”となっているのも珍しい。
(右下)キハ185系に引き続き採用された冷房の個別送風口。TSEならではの装備だ。
9時03分、定刻に松山を発車し、宇和島まで1時間20分ほどの旅が始まります。伊予市までは架線の下を走りますが、その先は非電化区間。比較的建設時期が新しい内子線でも、山間部ということで随所にカーブが存在しますが、そこは振子式車輛の本領発揮といったところ。迫るカーブに怖気る様子もなく、車体を傾けてスイスイと走り抜けます。少しの傾きのあと、さらに深く傾いていく様子は、このTSEが初めて採用した“制御付き振子装置”ならではのもの。先頭車にいると、前も風景を眺めながら振子装置の動きを楽しむことができます。
もちろん他の2000系に乗っても同じ体験が出来るのですが、やはりこの装置を実用化した車輛で体験すると、気分としても格別なものです。
次々迫るカーブも何のその。右へ左へ車体を大きく傾けて突き進んでいく。
10時24分、飽きることのない景色と傾斜を堪能して宇和島に到着しました。時間があれば予土線に乗り換え、のんびりした汽車旅を楽しみたいところですが、夜には大阪に帰らねばならず、また旅の目的がTSEであることもありますので、そのままTSEに乗って戻ることにしました。
二種類の座席が搭載されている2101。その違いは後ろから見るとよく分かる。奥が本来の座席、手前が後から設置された座席だ。枕カバーの色は指定席・自由席の区別で青が指定席となっている。
復路は反対側の先頭車、2101へ。前よりは指定席となっていることもあり、後ろよりの自由席区画に座ります。この車輛の客席後部はフリースペースとしてソファーが設置され、高速化に向けた試験が思わしくなかった場合は団体列車用としても使えるように考えられていました。
団体列車転用案は実現されることなく、本格的に量産車が増備されるようになると、このソファーは撤去され、座席が設置されました。改造部には新しいタイプの座席が設置されており、TSE本来の座席とは違うものであることが一目でわかります。この一角だけ座席が異なる……鉄道ファンなら何かしら怪しさを感じて興味を持つところですね。せっかくなのでこの改造部分に座ってみました。
TSE目的の旅ではあるものの、愛媛まで来たならちょっと寄っておきたいところがあり、八幡浜で下車。キハ54形の各駅停車に乗り換えて西大洲から歩くこと15分。伊予鉄南予バスの大洲営業所を訪問しました。
伊予大洲で出会った御年38歳のバス、日野K-RL321型。月に数回は運用に入る現役の車輛だ。
ここには全国でも数台になってしまった“古くて丸いバス”が予備車として残されています。バスの寿命は15年から20年と言われ、1990年代の車輛ですら貴重な存在になりつつある中、ここに残る車輛は1980年製造。事務所で来意を告げると快く歓迎してくださり、ピットに止まる老翁“日野RL”型を見せてもらうことができました。月に数日、他の車輛の検査の日などに運用に入るほか、昨今ではバスファンによる貸切運転に登板することもあるんだとか。温暖な南予地方でのんびり余生を過ごす日野RLの末永い活躍を祈ってやみません。
伊予大洲から鉄道に戻り、TSEの二時間後となる宇和海号……今度は量産車の中でもアンパンマン列車がやってきましたのでこれで松山に戻ります。
すっかり定着したアンパンマン列車。大人をも笑顔にさせてくれる列車だ。
マンガが描かれた子供向け列車と侮るなかれ……2000年の初登場から幾度かのデザイン変更を経て、今や四国全エリアで見ることができるようになったアンパンマン列車。数多くのバリエーションが見られますが、メインで使われているのは2000系で、TSEから始まる2000系の歴史の中でも欠かすことの出来ない存在となっています。
流線形先頭車。TSEと比べるとヘッドマークと黄色い帶が入ったが、これだけでかなり印象が異なる。
松山に到着すると、ちょうど宇和島行きの宇和海17号が発車の準備をしているところでした。宇和島側の先頭車は流線形の2005。普通車のみのモノクラス編成が基本の特急宇和海ですが、予備車としてグリーン席の付いた流線形の先頭車が準備されています。あくまで予備として通常は使われない車輛ということで、遭遇できたのは幸運でした。同じ場所でTSEと量産車の写真が用意できましたので、その違いをご覧ください。
(左)TSEの2001。ドア窓、ドアの色や運転席窓の周りに入る青色が特徴的。号車札や座席表示もいわゆるサボだ。
(右)量産車の2005。ドアは窓が小さいものに交換されているほか、号車、座席はLEDの表示器で表示される。
(左上)こちらはTSEの高松側先頭車、2101を宇和島側から。ドアの特徴の他、種別・行先表示が横長のものとなっている。またドア右側の部分にはかつて“TRANS SHIKOKU EXPERIMENTAL”の文字が記されていた。
(右上)量産車2117。種別・行先表示が二段式なっており、JR SHIKOKUの文字が入っている。
(左下)写真は2001の側面だが、うっすらとかつて記されていた文字が読み取れる。
1時間後にはTSEが松山に戻ってくるということで、そのままホームで往来する列車を眺めていましたが、次の宇和海19号の案内が始まった頃からにわかにカメラを構えたファンの姿が目立つようになりました。
私と同じく、到着するTSE目当てなのかと気にしていなかったのですが、それにしては少し様子がおかしい。何だろうなと思っていると……N2000系が宇和海のヘッドマークを掲げて姿を現しました。
転属したばかりのN2000系が早速運用入り。TSEと並ぶ姿も見ることができた。
主に高徳線の特急うずしおで使われているN2000系のうち、3輛が訪問前日に松山に回送されてきた……という情報は把握しており、これが引退するTSEの代わりであることは何となく想像できていたのですが、TSE引退前から走り始めるとは思わず、ただただ驚くばかり。そうこうするうちに宇和島からのTSEも到着し、両車を一枚の写真に収めることができました。
次の列車が夜間となるTSEは朝と同じく留置線に入って待機状態に。近くではアンパンマン列車の2000系も休んでおり、じっくりと車輛そのものを眺めたり、量産車との差異を観察することができました。
跨線橋から先頭車2001の屋根上を眺める。
電化区間の主力、8000系と並ぶTSE。後から登場した8000系は途中で塗装が変わってイメージチェンジをしたが、TSEは登場時の姿に近い状態を保ち続けた。
1989年の登場から29年。自身の成果を反映して誕生した量産車とともに、常に四国の特急列車の代表格として活躍を続けたTSEは、3月17日、今朝の宇和海2号で宇和島から松山までを走り、定期列車としての営業運転を終えました。
世界初と言われる機構や技術を採用した車輛は、試験運転のみで生涯を終えるものが多く、TSEのように大きな改造もなく、量産車と一緒に長い間活躍を続ける車輛はそう多くありません。それだけTSEは完成度の高い試作車輛だったということでしょう。
宇和島駅で発車を待つTSE。四国の日常に溶け込み、走り続けた日々が今、終わろうとしている。
四国を駆け抜けた“黒い顔の未来の特急”の29年間の活躍に、惜しみない拍手を送りたいと思います。