今日発売のとれいん3月号では,JR貨物のEF66 27をMODELERS FILEとして採り上げた.なにしろこの機関車,新造後45年を経てなお東海道・山陽本線で第一線の高速貨物牽引機として活躍を続けているという,これまでの日本の機関車史にはなかった,希有の例なのである.

その撮影取材のために吹田機関区をお邪魔したのは,昨年12月19日の朝だった.
 吹田機関区を初めて訪問したのがいつだったか,というのは,とれいんの昨年10月号Coffee Cupで“あれから50年 “よん・さん・とお”のころ”と題してお話したとおり,昭和43/1968年9月29日.その頃は蒸気機関車とディーゼル機関車の第一機関区と,電気機関車の第二機関区に分かれていて,僕が尋ねたのは第一のほうだった.ただ,構内をウロウロしているうちに第二機関区に留置されているEF66を発見して撮影した写真は,レイルNo.106の“誕生から50年のEF66・EF90”のグラフ頁に掲載し,そのエピソードは昨年6月21日付けのここで記した.
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レイルNo.106に掲載した写真の隣りの齣から.僕が初めて見たEF66.左がEF66 9,右がEF66 4.画面左端にちらりと見えるのはEH10である.吹田第二機関区 昭和43/1968-9-29

この場所からもう少し先まで歩いて線路を渡れば,レイルNo.106に掲載した,西尾克三郎さんのEF90 901の撮影ポイントである.その写真には構内通路としての踏切が写っているのだが,レイルに掲載した僕の写真の右奥にも,その踏切は写っている.

吹田第二機関区はその後,EF81の撮影取材で訪問したことがあるが,それとて昭和51/1976年3月のことだから,40年以上前のことである.
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50年後の,ほぼ同じ場所.画面右奥で通路が線路を横切っているのが見えるだろう.架線柱は半世紀前に既にコンクリート製だった.もしかしたら吹田第二機関区としてこの線路が整備された時からコンクリート製なのかもしれない.架線はカテナリーではなく,直接吊架式.近年の整備でこのようになったのかと思ったのだが,写真を改めて眺めてみたら,やはり50年前から,そうだった.

ということで,概ね風景が変っていないことを確かめることができたのだが,ひとつだけ違っていたのが,電気機関車の留置線中央部に,大きな門型の照明塔が建てられていたこと.架線柱やその影と,この塔の柱の位置関係などを勘案すると,“あちらを立てれば…”ということになり,大いに悩んだ末に撮影したのが,掲載した形式写真というわけである.EF81の時はどうだったのかと写真を引っ張り出してみたら,やっぱり鉄柱が写っている.別の場所の柱のようではあるが.

かつて何度も通った第一機関区の方は,ほんとうに大幅に変化していた.それは,扇形庫が跡形もなく消え去っていたこと.もちろん話には聞いていたのだけれど,目の当りにするのは初めてで,最初のうちはどこに扇形庫があったのか,全く見当がつかなかった.
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ようやく“ここあたりだろうか”と思った風景.画面奥のノコギリ屋根の建物が第二機関区の検修庫である.このポジションで回れ右すると,現在の吹田機関区の庁舎がある.

かつての吹田第一機関区の事務所は,扇形庫…転車台の真向かいにあったように思う.だとすれば,現在の位置ではない.第二機関区のそれは,なにしろ訪問したことがないのだから,どこにあったのか判らない.

その,現在の機関区庁舎の玄関先に動輪を発見した.壁にD52 6の第4動輪という表示がある.
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D52 6の第4動輪.いつごろからここに置かれているのか.ずっとここにあったのではなくて,以前はJR西日本の吹田工場(吹田総合車両所)で保管されていたものであるという話しも聞こえて来たが.

調べてみたら,この機関車は昭和19/1943年4月の浜松工機部(浜松工場)製で,新製配置が稲沢,その後は小郡機関区へ転じて昭和41/1966年に廃車となっている.
 もしかしたら,吹田第一機関区や鷹取工場で使われていたり修繕を担当していた機関車に振り替えられていたのかもしれない.そのあたりの真相究明は可能だろうか.
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輪心には棒状の刻印が何本か並んでいるが,文字のようなものは読み取ることができなかった.車軸にはD52 6と読むことができる刻印がある.一方で,シ18-9というのもある.これは一般的には昭和18年9月製を示す.

各部品が機関車の落成日よりも相当以前の製造であることは,現代でもごく普通のことである.だから,そういう意味では,なんら不思議はない.

ということで,40数年ぶりの吹田機関区での取材成果,じっくりとお楽しみいただければ幸いである.