今月発売のとれいんでは,MODELERS FILEとして阪急電鉄の“京とれいん 雅洛”を採り上げた.おかげさまでお客様からはご評価いただいているようで,販売の滑り出しは好調のようである.6輛編成の車体両側面に描かれたさまざまな京都風味の絵柄が外観での大きなセールスポイントである.せっかくだから,それを完全にお伝えしなくちゃならないと,真横の写真を撮影することができるポイントを探して……というのは,本誌のCoffee Cupでも記した.
そのCoffee Cupでは,撮影ポイントとして選んだ南茨木駅の梅田方にある古刹,蓮花寺周辺の今昔を主に記した.
横から見た蓮花寺.右が本堂で左が山門.いずれも屋根瓦が真新しく,ラインもきっちり揃っているから,ごく最近になって普請されたものであることがわかる.屏の瓦が一部欠けているのは,昨年の大地震の影響だろうか.
もっと梅田方に歩いて踏切から京都方を見た風景.この角度からは,現在の参道と山門の位置関係が不自然であることが一目で解る.元は本堂と山門を結ぶラインをまっすぐにのばした参道があったと見るのが自然だろう.もっと大胆にいえば,本来の山門はもっと右手…南方にあって新京阪建設の際に移設させられたものかもしれない.
もしも僕の想像が当っているならば,だが,このような例は各所にある.東海道本線の興津では清見寺の参道が分断されたし,東北本線の氏家では民家の庭先に線路が敷かれている.
さて,“変っていなかった架線柱”.この日の目的は“京とれいん 雅洛”の撮影である.だから,そうそうヒマはない.それでも,午後には少し気持ちに余裕が出来たものだから,同じ南茨木でも河原町方の架線柱を,少し観察してみた.
鉄製の架線柱にもいろいろな様式があって,中には架線柱メーカーが規格品として販売していた例もある.レイルNo.47で中川浩一さんが紹介してくださった富士身延鉄道…身延線沿線…このレイルの第1テーマは阪急神戸線特急史!なんという偶然…や東武鉄道野田線に採用されて今も多くが現役の“桜田式”などというのも,その一例である.京都の叡電も,とれいん誌の平成5/1997年6月号で紹介しているように,“結構柱”と呼ばれる独特の構造を持つ架線柱を使っていた.
新京阪の架線柱はシンプルなデザインのシングルレーシングタイプである.建設時に一括で発注されたものなのだろうが,区間によってディテールに若干のバリエーションを見ることができる.製造所が異なっているのだろう.
この架線柱については,とれいん誌が創刊された翌年,昭和51/1976年6月号にOゲージサイズの作品を紹介させていただいた思い出がある.真鍮材で丹念に組み立てられたその架線柱は,やはり自作であろうデイ100を添えた迫力ある写真を送ってくださったのだった.
南茨木と茨木市の間の現在の姿.奈良街道上三番踏切道から京都方を見る.架線柱の番号は京二八八の甲と乙.甲が西側で乙が東側.残念ながら製造時期を示す銘板や表記は見つけることができなかった.
線路を横断するビームと,架線を吊っているハンガー付近の構成を見上げる.大阪方の架線柱は主柱とビームの間の補強材が直線的,京都方では円弧を描いている例が多いようだ.写真は1本大阪方の京二八七甲.
この奈良街道上三番踏切のすぐ梅田方に,低い低い鉄橋があった.
5300系の5422を先頭にした河原町行き準急.背後に見える高架橋は吹田貨物ターミナルから大阪貨物ターミナルへの貨物線.その向こうが近畿自動車道と大阪モノレールで,その下が南茨木の駅である.阪急の沿線は,線路がほぼ地平にある場合,ご覧のようなフェンスがびっしりと張りめぐらされているから,撮影しづらいこと,この上ない.十三起点16キロのポストが立つのが,“低い低い鉄橋”.
すごく短いスパンのデッキガーダーが突然姿を見せる.周囲は田圃.となれば…と思ったら,塗装表記に“奈良避溢橋”と記されていた.桁そのものの銘板は,見いだすことができなかった.
避溢橋といえば,2011年3月24日のここで,“新京阪嵐山線の橋桁”と題して宮ノ前避溢橋を紹介している.嵐山線の桁はトラフガーダーであり,今回のは通常のデッキガーダーのように見える.
大阪平野的では古くから淀川や摂津の山々からの洪水に悩まされ続けてきた.避溢橋は,その被害を最小限に止めるために設けられたもので,その気になれば,まだまだたくさん,見つけることができるはずだが…….実現できるのは,いつの日のことだろうか.
上の写真の反対側,線路の東側,梅田方から見た奈良避溢橋.写真手前の道路は,僕が初めて南茨木の駅に降りたった昭和46/1971年には影も形もなく,整備されたのはこの今世紀に入ってからのことのようである.この撮影ポイントのすぐそばに“東奈良土地区画整理事業竣工記念”の石碑がある.建立された時期は読み取ることができなかったが.
あれ?Coffee Cupでは昭和47/1972年春だなんて書いてなかったか?はい.書きました.けれどそれは摂津市側(当時は正雀側)へ行ったのが,ということで,茨木市側は,その前年に訪問していたのであった.
そのCoffee Cupでは,撮影ポイントとして選んだ南茨木駅の梅田方にある古刹,蓮花寺周辺の今昔を主に記した.
横から見た蓮花寺.右が本堂で左が山門.いずれも屋根瓦が真新しく,ラインもきっちり揃っているから,ごく最近になって普請されたものであることがわかる.屏の瓦が一部欠けているのは,昨年の大地震の影響だろうか.
もっと梅田方に歩いて踏切から京都方を見た風景.この角度からは,現在の参道と山門の位置関係が不自然であることが一目で解る.元は本堂と山門を結ぶラインをまっすぐにのばした参道があったと見るのが自然だろう.もっと大胆にいえば,本来の山門はもっと右手…南方にあって新京阪建設の際に移設させられたものかもしれない.
もしも僕の想像が当っているならば,だが,このような例は各所にある.東海道本線の興津では清見寺の参道が分断されたし,東北本線の氏家では民家の庭先に線路が敷かれている.
さて,“変っていなかった架線柱”.この日の目的は“京とれいん 雅洛”の撮影である.だから,そうそうヒマはない.それでも,午後には少し気持ちに余裕が出来たものだから,同じ南茨木でも河原町方の架線柱を,少し観察してみた.
鉄製の架線柱にもいろいろな様式があって,中には架線柱メーカーが規格品として販売していた例もある.レイルNo.47で中川浩一さんが紹介してくださった富士身延鉄道…身延線沿線…このレイルの第1テーマは阪急神戸線特急史!なんという偶然…や東武鉄道野田線に採用されて今も多くが現役の“桜田式”などというのも,その一例である.京都の叡電も,とれいん誌の平成5/1997年6月号で紹介しているように,“結構柱”と呼ばれる独特の構造を持つ架線柱を使っていた.
新京阪の架線柱はシンプルなデザインのシングルレーシングタイプである.建設時に一括で発注されたものなのだろうが,区間によってディテールに若干のバリエーションを見ることができる.製造所が異なっているのだろう.
この架線柱については,とれいん誌が創刊された翌年,昭和51/1976年6月号にOゲージサイズの作品を紹介させていただいた思い出がある.真鍮材で丹念に組み立てられたその架線柱は,やはり自作であろうデイ100を添えた迫力ある写真を送ってくださったのだった.
南茨木と茨木市の間の現在の姿.奈良街道上三番踏切道から京都方を見る.架線柱の番号は京二八八の甲と乙.甲が西側で乙が東側.残念ながら製造時期を示す銘板や表記は見つけることができなかった.
線路を横断するビームと,架線を吊っているハンガー付近の構成を見上げる.大阪方の架線柱は主柱とビームの間の補強材が直線的,京都方では円弧を描いている例が多いようだ.写真は1本大阪方の京二八七甲.
この奈良街道上三番踏切のすぐ梅田方に,低い低い鉄橋があった.
5300系の5422を先頭にした河原町行き準急.背後に見える高架橋は吹田貨物ターミナルから大阪貨物ターミナルへの貨物線.その向こうが近畿自動車道と大阪モノレールで,その下が南茨木の駅である.阪急の沿線は,線路がほぼ地平にある場合,ご覧のようなフェンスがびっしりと張りめぐらされているから,撮影しづらいこと,この上ない.十三起点16キロのポストが立つのが,“低い低い鉄橋”.
すごく短いスパンのデッキガーダーが突然姿を見せる.周囲は田圃.となれば…と思ったら,塗装表記に“奈良避溢橋”と記されていた.桁そのものの銘板は,見いだすことができなかった.
避溢橋といえば,2011年3月24日のここで,“新京阪嵐山線の橋桁”と題して宮ノ前避溢橋を紹介している.嵐山線の桁はトラフガーダーであり,今回のは通常のデッキガーダーのように見える.
大阪平野的では古くから淀川や摂津の山々からの洪水に悩まされ続けてきた.避溢橋は,その被害を最小限に止めるために設けられたもので,その気になれば,まだまだたくさん,見つけることができるはずだが…….実現できるのは,いつの日のことだろうか.
上の写真の反対側,線路の東側,梅田方から見た奈良避溢橋.写真手前の道路は,僕が初めて南茨木の駅に降りたった昭和46/1971年には影も形もなく,整備されたのはこの今世紀に入ってからのことのようである.この撮影ポイントのすぐそばに“東奈良土地区画整理事業竣工記念”の石碑がある.建立された時期は読み取ることができなかったが.
あれ?Coffee Cupでは昭和47/1972年春だなんて書いてなかったか?はい.書きました.けれどそれは摂津市側(当時は正雀側)へ行ったのが,ということで,茨木市側は,その前年に訪問していたのであった.