さて,JR西日本の最新一般車である227系と323系をご紹介してから,早くも2ヵ月が経った.三姉妹の長女である広島向け227系の取材記は,4月1日付けと4月8日付けのここで記した.
最新,そして今のところ末っ子の227系1000番代の基本取材は,近畿車輌での報道公開と2019年初夏に行なっていた.沿線での撮影は,まだ編成数が少なくて朝夕しか走っていない時期であり,やや効率は悪かったものの,天候には恵まれて,思った通りに撮影できたのは幸いだった.
最新,そして今のところ末っ子の227系1000番代の基本取材は,近畿車輌での報道公開と2019年初夏に行なっていた.沿線での撮影は,まだ編成数が少なくて朝夕しか走っていない時期であり,やや効率は悪かったものの,天候には恵まれて,思った通りに撮影できたのは幸いだった.
なお,最終投入グループの仕様変更を確かめるための,今年に入ってからの撮影では,来住憲司さんの行動力と気転に助けていただくことになった.
2019年の撮影行のベースキャンプは,橿原神宮前駅前だった.その宿の部屋の窓から“ふたつの”橿原神宮前駅を一望できるという絶好のロケーション.今でこそ,どちらも同じ近畿日本鉄道の駅ではあるものの,生い立ちは異なり,ゲージも違っているということで,実質的には別の駅である.この一帯には縁が薄くて,実のところ,ほとんど初訪問ということもあり,夕食前のひととき,駅とその周辺を散歩してみた.
画面右が南大阪線,左というか中央の大屋根の向こうが橿原線の駅である.遠くに見えるのは高取山をはじめとする吉野の山並み.
その大屋根の駅本屋.昭和15年…皇紀2600年祭に際して著名な建築設計家である村野藤吾が手掛けた作品だという.
村野藤吾と鉄道との関わりは,この建物だけではなく,大阪上本町の近鉄本社社屋などもある.他には志摩観光ホテルや,東京では日本橋高島屋が昭和27/1952年に増築した部分……国重要文化財に指定……,その他に新高輪プリンスホテルも,村野の作品だそうである.
こちらは南大阪線の側の駅本屋.橿原線のそれと比べて,なんとかわいいことか.正式には,西口という扱いだそうである.
ぐるぅっと一周して,南大阪線と橿原線と車輛受渡線…狭軌広軌の併設線路も見ようとしたのだが,線路が一段高い位置にあり,作業場そのものは建物の中だから,構外の道路からの見学は残念ながら果たせなかった.
橿原線の駅に停車中の京都行き急行.電車は3200系.京都地下鉄乗入れ用として前面非対称のデザインがなんとも近鉄らしからぬ表情を醸し出しているが,斬新だと思っていたこの電車も,誕生から40年近くを経過しようとしている.電車の左手線路の向うに見える建屋が,狭軌広軌車輛受渡作業場である.
橿原線の駅の北側で線路を潜り,橿原神宮の方へ向かうと,橿原観光ホテルの前で道路が二又に岐れている.左へ行くと第一鳥居,右の道路は,地図を見るとそのまま北上して畝傍駅の方向へ向かっているが,どうやらこの道路が,大阪電軌(大軌)畝傍線の線路跡で,分岐点あたりに,畝傍線終点としての初代橿原神宮前があったようである.
大阪鉄道は阿部野橋から橿原神宮最寄りの久米寺駅まで到達したが,南方からは,吉野鉄道も久米寺駅で接続し,大軌の橿原神宮まで路線を延長して接続した.
そして後には,大軌が吉野鉄道の線路を三線軌條に改築して久米寺駅へ乗り入れるようになった.
さらにこの道からやや北東にそれて国鉄畝傍駅に至っていた,小房線という路線もあったらしい.
ああややこしい.なんだかどこかで勘違いして書き間違えているかもしれない…….
第一鳥居の前で分岐する道路.右が旧畝傍線(現在の橿原線)線路敷らしい.そしてまさにこの地点が,初代の橿原神宮前だったのではないかと思われる.
南へ下がって南大阪線の駅…大阪鉄道の開業時には久米寺と呼ばれた駅…の外れの踏切に出てみる.この駅の位置は変わっていないようなので,小房線の線路は,この踏切から真北に伸びて初代橿原神宮駅まで敷かれていたのだろう.
南大阪線橿原神宮前駅の西の外れの踏切から北方を見る.小房線の線路は画面右に向かっていたと思うのだが.さて.
ということは,現在の近鉄橿原線の線路は,大軌の畝傍線とはほとんど無関係の所を走っていることになる.この付け替えがいつ行なわれたのかといえば,冒頭でお話した皇紀2600年祭のための“再開発”.駅本屋の新築年からも理解することができる.ちなみにその折に命名された駅の正式名称は“橿原神宮駅”.だから,普通の言い方をするならば橿原神宮駅駅となる.畏れ多くも神武天皇を奉る神社の名称に敬称をつけないのは失礼である,というのが理由だったそうな.
そのようなことで,夕食前の僅か1時間で,日本の歴史ばかりでなく,大近鉄の複雑な歴史の一端も辿ることができた,有意義なひとときとなった.
なおこの翌日には,227系1000番代撮影の合間に,レイルNo.115でご紹介した和歌山線の五条駅を訪問している.そのレイルN0/115には,奇しくも西 和之さんによる近鉄吉野駅…吉野鉄道吉野駅の大屋根も紹介されている.ご一読いただければ幸いである.
画面右が南大阪線,左というか中央の大屋根の向こうが橿原線の駅である.遠くに見えるのは高取山をはじめとする吉野の山並み.
その大屋根の駅本屋.昭和15年…皇紀2600年祭に際して著名な建築設計家である村野藤吾が手掛けた作品だという.
村野藤吾と鉄道との関わりは,この建物だけではなく,大阪上本町の近鉄本社社屋などもある.他には志摩観光ホテルや,東京では日本橋高島屋が昭和27/1952年に増築した部分……国重要文化財に指定……,その他に新高輪プリンスホテルも,村野の作品だそうである.
こちらは南大阪線の側の駅本屋.橿原線のそれと比べて,なんとかわいいことか.正式には,西口という扱いだそうである.
ぐるぅっと一周して,南大阪線と橿原線と車輛受渡線…狭軌広軌の併設線路も見ようとしたのだが,線路が一段高い位置にあり,作業場そのものは建物の中だから,構外の道路からの見学は残念ながら果たせなかった.
橿原線の駅に停車中の京都行き急行.電車は3200系.京都地下鉄乗入れ用として前面非対称のデザインがなんとも近鉄らしからぬ表情を醸し出しているが,斬新だと思っていたこの電車も,誕生から40年近くを経過しようとしている.電車の左手線路の向うに見える建屋が,狭軌広軌車輛受渡作業場である.
橿原線の駅の北側で線路を潜り,橿原神宮の方へ向かうと,橿原観光ホテルの前で道路が二又に岐れている.左へ行くと第一鳥居,右の道路は,地図を見るとそのまま北上して畝傍駅の方向へ向かっているが,どうやらこの道路が,大阪電軌(大軌)畝傍線の線路跡で,分岐点あたりに,畝傍線終点としての初代橿原神宮前があったようである.
大阪鉄道は阿部野橋から橿原神宮最寄りの久米寺駅まで到達したが,南方からは,吉野鉄道も久米寺駅で接続し,大軌の橿原神宮まで路線を延長して接続した.
そして後には,大軌が吉野鉄道の線路を三線軌條に改築して久米寺駅へ乗り入れるようになった.
さらにこの道からやや北東にそれて国鉄畝傍駅に至っていた,小房線という路線もあったらしい.
ああややこしい.なんだかどこかで勘違いして書き間違えているかもしれない…….
第一鳥居の前で分岐する道路.右が旧畝傍線(現在の橿原線)線路敷らしい.そしてまさにこの地点が,初代の橿原神宮前だったのではないかと思われる.
そして第一鳥居と,その向うに沈む太陽.
南へ下がって南大阪線の駅…大阪鉄道の開業時には久米寺と呼ばれた駅…の外れの踏切に出てみる.この駅の位置は変わっていないようなので,小房線の線路は,この踏切から真北に伸びて初代橿原神宮駅まで敷かれていたのだろう.
南大阪線橿原神宮前駅の西の外れの踏切から北方を見る.小房線の線路は画面右に向かっていたと思うのだが.さて.
ということは,現在の近鉄橿原線の線路は,大軌の畝傍線とはほとんど無関係の所を走っていることになる.この付け替えがいつ行なわれたのかといえば,冒頭でお話した皇紀2600年祭のための“再開発”.駅本屋の新築年からも理解することができる.ちなみにその折に命名された駅の正式名称は“橿原神宮駅”.だから,普通の言い方をするならば橿原神宮駅駅となる.畏れ多くも神武天皇を奉る神社の名称に敬称をつけないのは失礼である,というのが理由だったそうな.
そのようなことで,夕食前の僅か1時間で,日本の歴史ばかりでなく,大近鉄の複雑な歴史の一端も辿ることができた,有意義なひとときとなった.
なおこの翌日には,227系1000番代撮影の合間に,レイルNo.115でご紹介した和歌山線の五条駅を訪問している.そのレイルN0/115には,奇しくも西 和之さんによる近鉄吉野駅…吉野鉄道吉野駅の大屋根も紹介されている.ご一読いただければ幸いである.