10月に発売のレイルNo.120.既にご覧になっている方は,表紙に登場した異形のC51に驚かれたに違いない.それは編集担当の僕とて同じことで,アルバムに貼られたプリントを見て,“度肝を抜かれた”というのが,偽らざる感想であった.
誰かが評して“太鼓腹”.まことに言い得て妙な形容である.表紙では定められた縦横比におさめるため,左右を中心にトリミングせざるをえなかったわけだが,ここではほぼノートリミングでお目に掛けることにしよう.撮影場所はアルバムに記載されていなかったけれど,たぶん,秋田近郊だろう. 昭和10/1935年頃 写真:佐藤 久
昭和10年頃の秋田にはもう1輛,異形のC51が存在していた.斜め煙突に改造されたそれはC51121である.こちらは,かつての趣味誌誌上などで存在は確認されていたものの,写真はおろか,機関車番号の確証もなかったようである.それが今回は,機関区でのスナップとともに,走行中の姿もお目に掛けることができた.これも編集者自身が“度肝を抜かれた”.
C51は,東北に加えて常陸での姿もご紹介した.それは撮影者が旧制高校時代の水戸高等学校に在籍されたからである.
冬の低い日射しを浴び,長い影を引き連れて快走するC51は148.昭和16/1941年1月頃の水戸と赤塚の間である.写真:佐藤 久
敢えて完全な逆光の中でC51を捉えたこの写真は,光の扱い方を心得た撮影者のセンスが存分に発揮された一葉といえる.
さてその撮影者である佐藤 久さん.本文中にも記した通り,秋田で生まれ,水戸で旧制高校時代を過ごし,東京帝国大学へ進んで地学の道を歩まれた方である.
レイルが月刊の時代に,黒岩さんからお話をうかがってはいたのだが,実際にお目に掛かることができたのは,進藤義朗さんの著書“奥羽本線福島・米沢間概史”の編集作業の中で,ネガを拝借した時だった.既に東京大学は退官されていたが,逆に,それが故にだろう,秋田での趣味活動のこと,水戸高校へ進学されたその動機のこと,戦時下のニューギニアでの地理調査のご苦労のこと,戦後のアンデスでの地理調査の合間に見た鉄道のことなど,少ないチャンスでありながら,たくさん語ってくださった.
東北の汽車の思い出は,昭和40年代に敢行した東北一周汽車巡りの思い出を交えて,発表してみよう,ともお約束いただいた.
けれど,毎年の年賀状で“今年こそは”と記しあううちに,訃報に接してしまうことになった.すぐにご家族に連絡をとり,COVID-19の感染禍が落ち着いたらお邪魔すると約して半年以上経過した今年の夏前,ようやく,久し振りのご自宅訪問を果たしたのだった.
その折に,丹念に整理されたアルバムを拝見した.ネガは見つからないとのことだったが,まずはプリントをデジタル化して広く紹介することが,果たせなかった“東北一周の旅”掲載を,一部でも実現する近道だろうと考え,無理をお願いして,アルバムを一括して拝借できた……そして,レイルNo.120でお目に掛けることができた次第である.
全てのアルバムを紹介できるまでに,どのぐらいの時間を要するか,皆目見当はつかないが,そのうちにはネガも無事に発見されるであろうとの願いを込めて,これから順次,お目にかけて行きたいと思っている次第.
もちろん,現在,印刷に取り掛かっている,1月発売のNo.121でも,ご覧いただくことになっている.楽しみにお待ちいただきたいと思う.
さて,話は前後したが,巻頭はヒギンズさんのモノクロ写真である.今回は,佐藤さんのC51と地域的には連携し,しかし年代も対象の路線も全く異なる,昭和30年代の東北各私鉄である.
僕にとっての東北の私鉄は,ごく僅かの体験しかできなかった分野のひとつである.なにしろ昭和40年代の大阪の高校生にとって,東北は遠かったのである.それだけに,憧れは強い.
そんな“憧れ”の中から選んだのは秋田中央交通の中央交通の電動貨車.いつどこで知ったのか,中学生のころから,会いに行きたかった車輛のひとつである.
晩年は塗り分けられていたというが,やっぱり単色がこの車輛には似合うと思う.一日市(現在の八郎潟) 昭和32/1957年5月26日 写真:J.W.HIGGINS
秋田中央交通,かつての名前は五城目軌道.なんとも正体のよく解らないBタンク機が働いていたということも,大阪弁天町の交通科学館で西尾克三郎さんに見せてもらった,ご自身撮影のスナップ写真で知っていはいた.けれど,僕にとってはその1枚の写真が強烈な記憶に残っているだけで,実態は長らく不明のままであった.
ところが,これまた,現在印刷中のNo.121で,佐藤さんの五城目軌道の写真に解説を付けるために一所懸命調べ,なんとか理解できた,と,思っているところである.
そうそう,No.120のこの鉄道の略年表で開業時の奥羽本線との接続駅を“一日市”と記したが,最初は実は“五城目”であったことを知った.ここで訂正させていただきます.
さて,当初の目論見からは大幅にボリュームが増加しつつある,高見彰彦さんの“汽車電車と記念写真”.第3回目は流山鉄道の車輛たちから始まり,京阪神間の蒸機列車,そして謎の展望車写真と展開する.
その中でもっとも興味深く思ったのが,鉄道省の制式客車を牽く“流山サドルタンク”の姿だった.
流山駅で撮影された鉄道省からの乗り入れ列車……というより,流山から常磐線への乗り入れ列車だろう.背景から推して,馬橋方面へ向かう出発待ち風景と知れる.それにしても模型鉄道の世界ではともかく,実際にこんな組み合わせがあったというのは,恥ずかしながら,初めて知ったことである.所蔵:塩澤秀陽 提供:高見彰彦
この稿の中に登場する車輛のうち1輛は,レイルNo.121でもお目に掛けることになっている.とれいん誌上での予告広告をご覧になった読者ならば,すぐにお判りになったかもしれない.楽しみに,年越しをしてくださいますよう!……年内,あと1回,あります.このブログ.
誰かが評して“太鼓腹”.まことに言い得て妙な形容である.表紙では定められた縦横比におさめるため,左右を中心にトリミングせざるをえなかったわけだが,ここではほぼノートリミングでお目に掛けることにしよう.撮影場所はアルバムに記載されていなかったけれど,たぶん,秋田近郊だろう. 昭和10/1935年頃 写真:佐藤 久
昭和10年頃の秋田にはもう1輛,異形のC51が存在していた.斜め煙突に改造されたそれはC51121である.こちらは,かつての趣味誌誌上などで存在は確認されていたものの,写真はおろか,機関車番号の確証もなかったようである.それが今回は,機関区でのスナップとともに,走行中の姿もお目に掛けることができた.これも編集者自身が“度肝を抜かれた”.
C51は,東北に加えて常陸での姿もご紹介した.それは撮影者が旧制高校時代の水戸高等学校に在籍されたからである.
冬の低い日射しを浴び,長い影を引き連れて快走するC51は148.昭和16/1941年1月頃の水戸と赤塚の間である.写真:佐藤 久
敢えて完全な逆光の中でC51を捉えたこの写真は,光の扱い方を心得た撮影者のセンスが存分に発揮された一葉といえる.
さてその撮影者である佐藤 久さん.本文中にも記した通り,秋田で生まれ,水戸で旧制高校時代を過ごし,東京帝国大学へ進んで地学の道を歩まれた方である.
レイルが月刊の時代に,黒岩さんからお話をうかがってはいたのだが,実際にお目に掛かることができたのは,進藤義朗さんの著書“奥羽本線福島・米沢間概史”の編集作業の中で,ネガを拝借した時だった.既に東京大学は退官されていたが,逆に,それが故にだろう,秋田での趣味活動のこと,水戸高校へ進学されたその動機のこと,戦時下のニューギニアでの地理調査のご苦労のこと,戦後のアンデスでの地理調査の合間に見た鉄道のことなど,少ないチャンスでありながら,たくさん語ってくださった.
東北の汽車の思い出は,昭和40年代に敢行した東北一周汽車巡りの思い出を交えて,発表してみよう,ともお約束いただいた.
けれど,毎年の年賀状で“今年こそは”と記しあううちに,訃報に接してしまうことになった.すぐにご家族に連絡をとり,COVID-19の感染禍が落ち着いたらお邪魔すると約して半年以上経過した今年の夏前,ようやく,久し振りのご自宅訪問を果たしたのだった.
その折に,丹念に整理されたアルバムを拝見した.ネガは見つからないとのことだったが,まずはプリントをデジタル化して広く紹介することが,果たせなかった“東北一周の旅”掲載を,一部でも実現する近道だろうと考え,無理をお願いして,アルバムを一括して拝借できた……そして,レイルNo.120でお目に掛けることができた次第である.
全てのアルバムを紹介できるまでに,どのぐらいの時間を要するか,皆目見当はつかないが,そのうちにはネガも無事に発見されるであろうとの願いを込めて,これから順次,お目にかけて行きたいと思っている次第.
もちろん,現在,印刷に取り掛かっている,1月発売のNo.121でも,ご覧いただくことになっている.楽しみにお待ちいただきたいと思う.
さて,話は前後したが,巻頭はヒギンズさんのモノクロ写真である.今回は,佐藤さんのC51と地域的には連携し,しかし年代も対象の路線も全く異なる,昭和30年代の東北各私鉄である.
僕にとっての東北の私鉄は,ごく僅かの体験しかできなかった分野のひとつである.なにしろ昭和40年代の大阪の高校生にとって,東北は遠かったのである.それだけに,憧れは強い.
そんな“憧れ”の中から選んだのは秋田中央交通の中央交通の電動貨車.いつどこで知ったのか,中学生のころから,会いに行きたかった車輛のひとつである.
晩年は塗り分けられていたというが,やっぱり単色がこの車輛には似合うと思う.一日市(現在の八郎潟) 昭和32/1957年5月26日 写真:J.W.HIGGINS
秋田中央交通,かつての名前は五城目軌道.なんとも正体のよく解らないBタンク機が働いていたということも,大阪弁天町の交通科学館で西尾克三郎さんに見せてもらった,ご自身撮影のスナップ写真で知っていはいた.けれど,僕にとってはその1枚の写真が強烈な記憶に残っているだけで,実態は長らく不明のままであった.
ところが,これまた,現在印刷中のNo.121で,佐藤さんの五城目軌道の写真に解説を付けるために一所懸命調べ,なんとか理解できた,と,思っているところである.
そうそう,No.120のこの鉄道の略年表で開業時の奥羽本線との接続駅を“一日市”と記したが,最初は実は“五城目”であったことを知った.ここで訂正させていただきます.
さて,当初の目論見からは大幅にボリュームが増加しつつある,高見彰彦さんの“汽車電車と記念写真”.第3回目は流山鉄道の車輛たちから始まり,京阪神間の蒸機列車,そして謎の展望車写真と展開する.
その中でもっとも興味深く思ったのが,鉄道省の制式客車を牽く“流山サドルタンク”の姿だった.
流山駅で撮影された鉄道省からの乗り入れ列車……というより,流山から常磐線への乗り入れ列車だろう.背景から推して,馬橋方面へ向かう出発待ち風景と知れる.それにしても模型鉄道の世界ではともかく,実際にこんな組み合わせがあったというのは,恥ずかしながら,初めて知ったことである.所蔵:塩澤秀陽 提供:高見彰彦
この稿の中に登場する車輛のうち1輛は,レイルNo.121でもお目に掛けることになっている.とれいん誌上での予告広告をご覧になった読者ならば,すぐにお判りになったかもしれない.楽しみに,年越しをしてくださいますよう!……年内,あと1回,あります.このブログ.