とれいん9月号,もうご覧いただけただろうか.関西や関東に,あれほど当たり前のように走っていた103系電車も,この春に奈良のグループが引退したことによって,気がつけば,原形の面影を色濃く残すのは,JR西日本の和田岬線用の6輛だけになってしまった.
 撮影取材は,昨年のうちにほぼ済ませていたけれど,タイミングを見計らっているうちに,1年近くが経ってしまった.もっとも,そのおかげで,かつて“新性能国電”シリーズのMODELERS FILEを手掛けてくださっていた前納浩一さんと永尾信幸さんの,力強いご協力を得られたのだから,結果的にはよかったといえる.

さて,和田岬線,正式には山陽本線の支線であるわけで,歴史の頁を繙いてみれば,山陽鉄道の建設工事のために建設された,というところまで遡ることになる.そのような経緯であるから,実は何年に線路そのものが開通したのか,正確には判明していないそうだ.

和田岬線は兵庫の駅を起点として終点の和田岬まで,沿線は工場や倉庫街に終始するが,ただ1ヵ所,車窓が広がるのが兵庫運河に架かる橋梁を通過する時.
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橋梁をたもとから見る.画面奥が兵庫.背景の白い建物が目立ちすぎることもあって,本文では使わなかったけれど,橋桁や煉瓦積みの橋台,石積みで何度か改築された様子が看て取れる翼壁の様子はわかりやすい.

これ以降の写真は,橋梁の南西側に掛かる道路橋,材木橋から撮影したものである.反対側にも遠くに道路が見えるけれど,今回は回り込んで行く時間がなかった.
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橋脚はあるが,橋桁は両岸の橋台から1本で通っている.この橋梁は元は旋回橋であって,橋脚が回転軸だったのだ.

いつ頃まで旋回橋として使われたのか,これまた,僕がにわか勉強で調べた範囲では,判然としない.レイルNo.27(1990年)の亀井一男さんの原稿では,同じ運河に存在した道路の旋回橋について“20年代前後に姿を消している(この“20年代”とは,1920年代のことだろう)”と記されているものの,現存する旋回橋のことは“現在は固定されている”と記されているだけ.
 いつも参照している土木学会の“歴史的鋼橋集覧”には,開通年こそ明治32/1899年12月と明記されているが,旋回裝置については“現在は、回転機構がすべて撤去され、固定橋となっている。”とのみ記されている.
 もっとも,橋台も橋脚も橋桁も明治期のオリジナルが残っているうえに旋回橋という特殊構造,さらに鉄道橋としては現役とあれば,なんらかの文化財に指定されてもおかしくないと思っていたら,令和3/2021年に,土木学会の選奨土木遺産に認定された.
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兵庫方の岸から見た和田旋回橋の全体像.桁は典型的な英国式で,明らかに輸入品である.回転装置があったと思われる部分の古びようから,撤去されてから相当の歳月が経過していることがうかがい知れる.

橋台や橋脚の煉瓦の積み方は美しいイギリス積みである.
 同じ集覧の記載では,橋の長さは15.5m,径間数は2,支間は7.7mとなっている.

ちなみに大阪港にも,かつては複数の可動橋が存在したが,今ではひとつも残っていない.つい最近まで桜島線の電車が通っていた跳ね上げ橋は,最後は跳ね上げ橋(跳開橋)の目的だった北港運河が埋められ,そして平成11/1999年には,線路の付け替えによって完全消滅となっている.
 そして,今でも現役の鉄道での可動橋は,関西本線四日市近くの,通称,末広橋,ただ1ヵ所となって久しい.こちらも土木遺産に認証されている.

和田岬線といえば,かつてはいくつもの貨物引き込み線があり,終点も現在の駅から先へと線路が延びていた.いまは,川崎車両への引き込み線を除けばすべて廃止されてしまっている.その名残りは各所で見ることができるが,例えば和田岬駅.
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和田岬駅終端部.いかにも唐突な終わり方であるのもそのはず,構内には側線や機回し線もあった.気動車化と電車化によって単なる1本の線路になってしまったのである.
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この車止めの先には岸壁まで線路がのびていた.目の前を横切る道路には市電が走っていて,和田岬線の上をトラス橋で乗り越していたし.
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舞い戻った起点の兵庫駅線路終端部.こちらは川崎車両からの出場車を甲種輸送する際に牽引機の機回しが必要なので,ちゃんとポイントも存在する.
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そして山陽本線ホームへのコンコースと階段.神戸市内高架化の時の姿が,ほぼそのままに残っている.画面左端には和田岬線の乗り場案内が.数年前まではホームへの出入りが自由で,甲種輸送の好撮影地だったのだが,今では自動改札機が設けられてしまい.列車の運転時間帯以外はホームに立ち入ることができなくなっている.


ということで,実は生まれて初めての和田岬線実体験を果たした,秋の週末の朝であった.