まったく,気がつけば2月もすでに下旬.1月下旬に出来上がったレイルNo.89のことを報告しなくてはと思いつつ,ひと月が経過してしまった.

さてそのレイルNo.89,今回のメインテーマは“東北本線全線電化から45年”.
  省線電車用としての大宮までの電化はともかく,宇都宮電化から繙けば約55年の歴史ということになるのだが,時間軸的にも距離軸的にも,一気に纏めるのに は壮大なテーマに過ぎるということで,今回は最終区間である盛岡と青森の間,さらに絞って岩手県内,もっと凝縮して奥中山…中山峠を中心として採り上げる ことにした.
 きっかけは,河村かずふささんから寄せられた昭和37/1962年とその翌年の訪問記.基本的には電車ファンである河村さんが,珍 しく“その気”になって蒸気機関車を求めての旅をされたというのが,なにより珍しいこと.それの見聞記を掲載しただけで終わらせるのでは,あまりにももっ たいないと考えたわけである.

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河村さんが憧れ,しかし見ることができなかった福島と宮城の県境での三重連の勇姿.撮影は本島三良さん.ここではD51ばかりでなく,C51やC57,D50も入り乱れての重連,三重連,後補機つき列車が運転されていた.昭和26/1956年11月 写真:本島三良

河村さんは,桑折-藤田-貝田-越河と続く峠道での蒸機列車撮影を果せなかった代わりとして奥中山へ足を向けられたわけだが,2年続けて通ったということは,奥中山というところを,よほど気に入られたのだろう.
  そんな奥中山.大阪在住の中学生には,本当に遠隔の地.だから僕自身は蒸機時代を知らない.今回,電化前の光景を求めて,平井憲太郎撮影によるD51三重 連の写真を(僕が編集主務となってからは初めて!)掲載したわけだが,平井曰く“あと1年,早く行ってれば煩わしい架線柱のない写真が撮れたんだよ ねぇ”.
 まぁ,この趣味で“あと○年”は,古から語られていたわけで,かの西尾克三郎さんだって“あと5年早く生まれてたら,マレーの現役を撮影できたんやけどなぁ”と,晩年になっても慨嘆されていたほどである.

で,僕が初めて奥中山を訪問したのは,昭和50/1975年3月.
  ED75で三重連運転が行なわれていたのは知っていたのだけれど,運用など知らず,やってきた時には反対方向を向いていて,とりあえずシャッターは切った けれど……という程度に終わった.けれど,あの頃のED75は,“若人”という形容がぴったりだったし,485系も583系も,車齢は10年に満たない, “新車”だった.

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“とりあえず写ってます”という,僕のED75三重連.再訪を期したのだが,果せないうちに,三重連運転は終わってしまった.

資 料編としては,月刊時代のレイルから,岩沙克次さんが纏めてくださった“中山峠三重連運転のあゆみ”と,蒸気現役時代の機関士や検修のみなさんによる座談 会を再録した.月刊時代のレイルは,バックナンバーの在庫がなくなって久しく,掲載から34年を経過している.初出である昭和55/1980年から34年 前といえば戦争が終わって間もない昭和21/1946年.あの当時,昭和21/1946年の記事を再録しても,なんら不思議と思われなかった.むしろ望ま れていたと思う.というのが,今回の再録に対する考え方である.時間の流れ方を,自分だけを中心に考えてしまうと,ちょっと勘違いみたいなことになるわけ で,これからも気をつけていきたいと思っている.
 さらに三宅俊彦さんのご協力によって,岩手県内の東北本線のダイヤグラムや機関車運用表,駅構内線路配置図なども掲載できた.その結果,さらに資料性を高めることができたと思う.

下 田榮夫,下田榮武のお二方が撮影された,明治から大正にかけての盛岡近辺の鉄道情景の写真を掲載できたのも,嬉しいことのひとつ.これは昭和 41/1966年に“鉄道ファン”誌に掲載されたものである.僕が子供のころに憧れとともに眺めた写真を,自分の手で編集するという喜びを,今回も味わう ことができた.そういう意味では,僕は本当に幸せ者である.

最後になったが,レイル伝統の外国鉄道紹介,今回は大石真裕さんによる,フランスのマウンテン機のスイスでの重連運転と,フランス ミュールーズ鉄道博物館の近況報告である.併せて蒸機の煙を堪能していただければ幸い.