今年も早いもので11月半ばを過ぎた.学校に通っていた頃は,冬と春と夏には長期休暇があったので大阪を拠点にして遠くへ出かけたものだが,秋だけ は,なかなかそうもいかなかった.そこで近所を中心に乗ったり撮影したりということになる.京阪も阪急も,週末ともなれば特別ダイヤを組んで観光客輸送に 大童.京都市電や嵐電,叡電も紅葉狩りの客で大賑わい.という光景は,しかしそれほどたくさん記録できたわけではない.
 それでも,本格的な路線縮小が始まる直前の京都市電は,乗っているだけでも飽きないネットワークで,随分とうろつき回ったものである.寺町今出川のマツモト模型へ通うのにも,いろいろ違った系統に乗って行き,帰り道もまたぐるっと遠まわりして乗って帰ったりもした.
  最終期には,線路の保守が行き届かなかったのだろうか,力行する車内で吊革が左右に大きく揺れて荷物棚に当たり,ガチャンガチャンと煩く響くことが多く なった.揚げ句の果てには,直線区間なのに,腰掛けていた老婆が通路に投げ出されそうになったりという光景にも出くわした.
 けれども,阪神国道線の最後のころのような,待てど暮らせど電車が来ないという“意地悪ダイヤ”はなく,電車の姿が通から消えてしまう瞬間というのはなかったように思う.
 もっとも,七条と四条,そして東山三条で京阪電車との交叉風景を狙っている時に限って,なかなかタイミングが合わなかったりはしたけれど.
 そんな思い出の京都市電も,今年で“N電”こと北野線が廃止されて50年.その後の本格的路線縮小の最初である伏見線廃止から41年が経った.全廃からですら,もう38年である.

“私の思いでの京都市電を纏めてみたいんですが”というご提案を,福田静二さんからいただいたのは,“京阪ロマンスカー史”が出来上った頃だから,1年半ほど前のことだったろうか.格段の周年というわけではないのだけれど,思い立ったがなんとやら.
 今年…お話の時点では来年…には写真展開催の企画もあるとのことで,刊行目標を秋と決めるまでに,それほど時間は掛からなかった.

そして先月,“街ともに人とともに 在りし日の京都市電を偲ぶ”が,レイル80号のメインの稿として,“山形の鉄道情景(下)”とともに完成したわけである.
  この稿,普段のレイルとは一味も二味も違った面持ちの構成と仕上がりになっている.これは,本職のベテラン編集者である福田さんが,きめの細かいレイアウ トプランを作製してくださった結果であり,実作業の途上では,しばしば,“なるほどそういう意図だったか”とページデザインのアイデアやテクニックに気づ かされることになった.大いに勉強させていただいた.ありがとうございます,福田さん.
 ちなみに,モノクロ写真のほとんどすべてのデータ化も福田さんの手になるもので,その仕上げなどにも,大いに得るところがあった.それらは,これからの本の編集に活かしていきたいと思っているのだが,さて…….

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京阪沿線に育った僕にとっての京都市電の情景は,なんといっても,これ.写真は四条通りだが,同じような風景は七条でも見ることができたし,東山三条では京 津線と交叉し,さらに昭和46/1971年までは稲荷で専用線同士の交叉も存在した.さらに叡電前では京福叡山線(今の叡山電鉄線)と交叉するなど,他社 線との平面交差の多さは,大都市の市電としては随一ではなかったか.昭和47/1972年1月21日 写真3点全部:福田静二

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もうひとつは八坂神社前のこの風景.夏の暑い昼下がり,厳寒の黄昏時……今でも市電が走ってくるのではないかと錯覚することもある,街角の一つ.昭和47/1972年1月17日

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日の出直後の烏丸七条.京都市民ならではのショットだろう.電車や人とともに,最終期の線路状態も,正直に写し出された写真.昭和52/1977年9月11日

巻 末に,高橋 弘さんと澤村達也さんという,ふたりの先輩の訃報を載せなければならなかったことは,まことに残念なことだった.ただ,おふたりとも,京都と 京都市電にゆかりの深い方であり,しかも澤村さんは福田さんと学校が同窓という縁もあった.そのような関連の号への掲載だというのが,せめてものなぐさめ といえようか.

今回のレイル80号ではその他に,早川昭文さんの,C61 20の復活に因んだ現役時代のC61の思い出.そして蔵重信隆さんによる,遥か中国大陸の奥深い新疆ウイグル自治区の炭砿に残る煙を掲載している.どうぞ お近くの書店や模型店でご覧くださいませ.弊社オンラインショップ“etrain-Hobbies”でも注文していただくことが可能です.どうぞよろしくお願いします.