僕の生活サイクルは,毎月の月刊誌のほか,“蒸機の時代”と“レイル”のための3ヵ月サイクルがある.それぞれの組み合わせによって忙しい時期が重なったり,そうかと思えば,思いがけずポッカリと日程の空白期が生じることもある.それはいつも,ほんの僅かだけれど.
今日は,とれいん7月号の入稿は終えたものの間を空けずにレイルNo.127の編集締め切りが迫っていて,写真頁の構成や説明書きで大忙し.
そんな6月15日,ちょっと作業が一段落した合間を生かして,4月に刊行したNo.126を振り返ってみた.
そのNo.126.中身は北陸一辺倒である.
第1テーマは,福井と九頭竜湖を結ぶ越美北線.55年前の昭和43/1968年10月に走った御召列車の撮影記と,その撮影に際して出逢った担当機関士さんの奥様との邂逅とその後の交流,そして55年を経ての劇的な再会のドラマが展開する.語ってくださったのは福田静二さん.
撮影地での地元の人たちとの出会いは,日常的なできごとともいえるが,御召列車運転担当機関士の奥様から声を掛けられるなどということは,そうそうは起こらないこと.そんな福田さんの思い出を,ずっと前に伺っていて“いずれ!”と思っていたのだけれど,今年,越美北線無煙化から50年であることに思い至った去年になって“そろそろ発表していただけませんか?”とお願いした次第.
福田さん撮影による,御召次位機の機関士,北 正志さん.モータードライブ…当時はワインダーとも呼ばれた…など高嶺の花の時代,本命カットを写して次位機が目の前を通過するまでにフィルムを巻き上げてピントを合わせて……なかなかの高等技術である.六条-越前花堂 昭和43/1968年10月2日 写真:福田静二
八木邦英さんとのお話の中で,“8620の重連が走ってましてね”…初耳だった.“その写真と思い出をぜひ!”となったのは,福田さんのお話とは全く別のことで,実はもっと以前のことだった.
お話を伺っているうちに,50年間も抱き続けてきた,僕の越美北線への疑問が,全て解けた.昭和35/1960年の開業時の終点が,なぜ大きな町のある大野ではなく集落もない勝原だったのか.その勝原の構内がとにかく広く,転車台もここにあるのだけれど,貨物扱いはしていない…なのになぜ?
経緯は本編に詳しいが,ともあれ発電所建設資材を輸送するのが目的だったことが明白になった.
第二 九頭竜川橋梁を渡る8620重連牽引の貨物列車.重連でなくてもよいから,貨車を牽いた列車を写したかった…….柿ヶ島-勝原 昭和42/1967年 写真:八木邦英
越美北線の締めくくりは“手前味噌”.昭和47/1972年12月の,僕自身による訪問記である.でも,本当に偶然というのはあるもので,今年2月,福井鉄道のニューフェイスF2000形がお披露目されるとのことで,再訪が実現してしまったのである.
50年前の計石と牛ヶ原の間,峠目指して奮闘する88623.訪問時,越美北線の沿線撮影地については,ほとんどなにも予備知識がなかった.ただ国土地理院の地形図と,“かぶりつき”による“えいやっ”だったと思う.ここではノントリミングでお目に掛けよう.昭和47/1972年12月26日 写真:前里 孝
沿線撮影地の情報を持っていなかったのは御召列車撮影時のファンも,同様だったらしい.表紙を飾ってくださった,レイルウェイズグラフィックの荒川好夫さんも,ほとんど事前の知識なく列車に飛び乗り,“ここ!”という鉄橋での撮影になったのだという.
実は表紙写真,トリミングなしだとこういう構図.植生に詳しい友人によれば“昭和戦後期の植林事業の典型的な山腹だ”とのこと.越前高田-一乗谷 昭和43/1968年10月2日 写真荒川好夫(RGG)
さてもうひとつのテーマは,8回目となった,ヒギンズさんの私鉄写真,北陸編である.なにしろ昭和40年代までの北陸3県には,数えきれないほどの路線が北陸本線を軸として絡み合っていて,実のところ,僕にはいまだにその全容が頭の中に入っていない.その結果,路線概要図は,解説を担当していただいた服部重敬さんから,幾度も修正のご指示をいただいた.それでもなお,まだ完璧ではないかもしれない…….
あまたあるヒギンズさんの写真から1点を選び出すというのは,至難の業である.
僕にとって思い出深い,京福電鉄の大野駅.駅本屋の屋上が遊園地になっていた.昭和47/1972年12月にはそれらしき遊具は見えなかったが,でもそれ以外は,この写真が撮影されてから15年が経過したとは思えない,変わらない風景を,今でもしっかりと覚えている.昭和32/1957年6月2日 写真:J.W.HIGGINS
なにか興味ある話題を耳にすると,後先考えずに“それ,お願いします!”と口にしてしまう.編集屋の習性である.でも,“こんな本が出来上がったら喜んでもらえるんじゃないだろうか”と思うと,やめられない.
今も,僕の“無理無茶わがまま”に対して頭を抱えてくださっている方が,何人もおられる.申し訳ありません.心から感謝しております.ありがとうございます.
ということで,次も,その次も,さらに別の企画でも,ただひたすら,“皆さんに楽しんでいただける本”をお届けしたいと思っている.読者の皆さまには,どうぞこれからも,末永くおつきあくださいますよう,お願いします.
今日は,とれいん7月号の入稿は終えたものの間を空けずにレイルNo.127の編集締め切りが迫っていて,写真頁の構成や説明書きで大忙し.
そんな6月15日,ちょっと作業が一段落した合間を生かして,4月に刊行したNo.126を振り返ってみた.
そのNo.126.中身は北陸一辺倒である.
第1テーマは,福井と九頭竜湖を結ぶ越美北線.55年前の昭和43/1968年10月に走った御召列車の撮影記と,その撮影に際して出逢った担当機関士さんの奥様との邂逅とその後の交流,そして55年を経ての劇的な再会のドラマが展開する.語ってくださったのは福田静二さん.
撮影地での地元の人たちとの出会いは,日常的なできごとともいえるが,御召列車運転担当機関士の奥様から声を掛けられるなどということは,そうそうは起こらないこと.そんな福田さんの思い出を,ずっと前に伺っていて“いずれ!”と思っていたのだけれど,今年,越美北線無煙化から50年であることに思い至った去年になって“そろそろ発表していただけませんか?”とお願いした次第.
福田さん撮影による,御召次位機の機関士,北 正志さん.モータードライブ…当時はワインダーとも呼ばれた…など高嶺の花の時代,本命カットを写して次位機が目の前を通過するまでにフィルムを巻き上げてピントを合わせて……なかなかの高等技術である.六条-越前花堂 昭和43/1968年10月2日 写真:福田静二
八木邦英さんとのお話の中で,“8620の重連が走ってましてね”…初耳だった.“その写真と思い出をぜひ!”となったのは,福田さんのお話とは全く別のことで,実はもっと以前のことだった.
お話を伺っているうちに,50年間も抱き続けてきた,僕の越美北線への疑問が,全て解けた.昭和35/1960年の開業時の終点が,なぜ大きな町のある大野ではなく集落もない勝原だったのか.その勝原の構内がとにかく広く,転車台もここにあるのだけれど,貨物扱いはしていない…なのになぜ?
経緯は本編に詳しいが,ともあれ発電所建設資材を輸送するのが目的だったことが明白になった.
第二 九頭竜川橋梁を渡る8620重連牽引の貨物列車.重連でなくてもよいから,貨車を牽いた列車を写したかった…….柿ヶ島-勝原 昭和42/1967年 写真:八木邦英
越美北線の締めくくりは“手前味噌”.昭和47/1972年12月の,僕自身による訪問記である.でも,本当に偶然というのはあるもので,今年2月,福井鉄道のニューフェイスF2000形がお披露目されるとのことで,再訪が実現してしまったのである.
50年前の計石と牛ヶ原の間,峠目指して奮闘する88623.訪問時,越美北線の沿線撮影地については,ほとんどなにも予備知識がなかった.ただ国土地理院の地形図と,“かぶりつき”による“えいやっ”だったと思う.ここではノントリミングでお目に掛けよう.昭和47/1972年12月26日 写真:前里 孝
沿線撮影地の情報を持っていなかったのは御召列車撮影時のファンも,同様だったらしい.表紙を飾ってくださった,レイルウェイズグラフィックの荒川好夫さんも,ほとんど事前の知識なく列車に飛び乗り,“ここ!”という鉄橋での撮影になったのだという.
実は表紙写真,トリミングなしだとこういう構図.植生に詳しい友人によれば“昭和戦後期の植林事業の典型的な山腹だ”とのこと.越前高田-一乗谷 昭和43/1968年10月2日 写真荒川好夫(RGG)
さてもうひとつのテーマは,8回目となった,ヒギンズさんの私鉄写真,北陸編である.なにしろ昭和40年代までの北陸3県には,数えきれないほどの路線が北陸本線を軸として絡み合っていて,実のところ,僕にはいまだにその全容が頭の中に入っていない.その結果,路線概要図は,解説を担当していただいた服部重敬さんから,幾度も修正のご指示をいただいた.それでもなお,まだ完璧ではないかもしれない…….
あまたあるヒギンズさんの写真から1点を選び出すというのは,至難の業である.
僕にとって思い出深い,京福電鉄の大野駅.駅本屋の屋上が遊園地になっていた.昭和47/1972年12月にはそれらしき遊具は見えなかったが,でもそれ以外は,この写真が撮影されてから15年が経過したとは思えない,変わらない風景を,今でもしっかりと覚えている.昭和32/1957年6月2日 写真:J.W.HIGGINS
なにか興味ある話題を耳にすると,後先考えずに“それ,お願いします!”と口にしてしまう.編集屋の習性である.でも,“こんな本が出来上がったら喜んでもらえるんじゃないだろうか”と思うと,やめられない.
今も,僕の“無理無茶わがまま”に対して頭を抱えてくださっている方が,何人もおられる.申し訳ありません.心から感謝しております.ありがとうございます.
ということで,次も,その次も,さらに別の企画でも,ただひたすら,“皆さんに楽しんでいただける本”をお届けしたいと思っている.読者の皆さまには,どうぞこれからも,末永くおつきあくださいますよう,お願いします.