ほぼ3週続けてJR東日本の鶴見・南武界隈に関する話題…….E127系報道公開の日,集合がお昼だったので,忙中閑…はなかったけれど,事務所に寄って一仕事するには中途半端だったので,思い切って午前中に鶴見線を一回りしてきた.
前にも訪問記を書いたような……でも改めて検索してみたら,ない.おかしいなぁと,記憶をたどった結果,浮かび上がってきたのが,2015年に刊行したレイルNo.96.田邉幸男さんの日本鋼管工場訪問記や風間克己さんによる鶴見線弁天橋駅からの構内線スナップなどを掲載しているのに添えて,“現況”をレポートしていたのだった.
それから8年,どう変わっただろうか…….
さてではいつ設置されたものか.2010年08月25日付の読売新聞“かながわ駅めぐり(7)JR鶴見駅”が出典だという“Wikipedia 鶴見駅”によれば昭和34/1959年なのだというが.
いわゆる北朝鮮への帰国事業は昭和34/1959年の12月に第一陣が出発しているから,この年,あるいは翌年のこと,だろう.
ほどなくやってきた電車は,205系T11編成. 鶴見方がクモハ204-1101,中間がモハ205-26,そして浜川崎方がクハ205-1101だった.
鶴見駅に進入する205系T11編成.この線の来歴を知らなくても,“国鉄”の駅には見えないだろう,独特の空気がある.
途中の鶴見小野では満開のサルスベリを愛で,弁天橋では居並ぶ205系を眺めつつ浅野へ.
8年前と変わりはない…ように見えるが駅名表示の看板が新しくなっている.そして飲料水の自動販売機が簡易改札機の横に移動した.そして画面には見えないが,切符の自動販売機が撤去されていた.
海芝浦行きホームの上屋.ただ自然に時が流れ,ウェザリングが進化していた.
しばらく待っていたら,海芝浦行きが姿を見せた.8年前と比べれば,夏とはいえ線路上が草生しているのが大きな変化.8年前も夏だったわけだが.背景では,工場が建て直されて煙突が姿を消していた.
浜川崎行きのホームから鶴見方向を見る.画面右端,信号機の左側奥には弁天橋のホームが見える.左側の空き地……には側線が敷かれている,はず,なのだが,レールは全く見えない.でも,剥がされているわけではなさそうである.
浜川崎方面には,電車の通る2本のほかにもう1本,貨物用の線路がある.定期貨物列車がなくなってからも,特大貨物などに使われていたのだが,気がつけば,枕木様の角材が渡されていて“通せんぼ”.廃止ではなく休止ということか?
隣の安善では米軍タンク車が変わらずたむろしているのを見て安心し,武蔵白石の分岐も改めて確認し,そして浜川崎着.
道を隔てた南武線浜川崎支線の駅本屋の上には,変わらず高架線がそびえていた.画面右上端,路盤上に生えた木は,いよいよ背が伸びたように思える.
ホームで待っていたのは205系“1”編成.クモハ205-1001とクモハ204-1001だった.
この205系1000番代,合計3編成あるが,投入されるE127系は2編成である.どうするのだろうか…….当面は1編成が残ることになるようだが.
もうひとつ,待っていたのが,これ.もう何十年,ここに鎮座しているだろうか.
残念なことに,富士重工の銘板は脱落してしまったようである.ちなみに同社のTMC200A,昭和41/1966年2月製,製造番号39である.“大船保線区 404”という標記も,塗りつぶされ……ということは手入れされてる?
思いついて,もしかしたらと帰宅後に国土地理院の空中写真閲覧サービスで検索してみたら……
1988年2月16日撮影の浜川崎付近写真(整理番号KT874X)に,それらしき物体が.その前,1984年12月3日に撮影の写真には,ない.掲載に際しては拡大,トリミングを行なっている.写真:国土地理院
なんと35年も眠っている…いやこの時点ではまだ現役だったのかもしれないけれど.
そして尻手へ,武蔵中原へ.尻手ではE233の離合を見ることができた.
ということで,ほんの2時間ほどの散歩だったのに,たくさんの写真と長い文章になってしまいました.
前にも訪問記を書いたような……でも改めて検索してみたら,ない.おかしいなぁと,記憶をたどった結果,浮かび上がってきたのが,2015年に刊行したレイルNo.96.田邉幸男さんの日本鋼管工場訪問記や風間克己さんによる鶴見線弁天橋駅からの構内線スナップなどを掲載しているのに添えて,“現況”をレポートしていたのだった.
それから8年,どう変わっただろうか…….
スタートはここ.乗り換え用の自動改札機は昨年2月末に撤去された.昭和46/1971年に鶴見線内無人駅化により有人改札口が設置されて以来,51年振りのこと.画面左端に見える時計が,ずっと前から気になっていたので観察に向かう.
時計の下に銘板がある.読んでみれば“贈 皆さんお元気で 朝鮮民主主義人民共和國 鶴見地区帰國者一同”とある.日付はない.時計の銘板には“電気子時計 製造番号1079(5?)2 株式会社精工舎”とある.やっぱり日付はない.さてではいつ設置されたものか.2010年08月25日付の読売新聞“かながわ駅めぐり(7)JR鶴見駅”が出典だという“Wikipedia 鶴見駅”によれば昭和34/1959年なのだというが.
いわゆる北朝鮮への帰国事業は昭和34/1959年の12月に第一陣が出発しているから,この年,あるいは翌年のこと,だろう.
ほどなくやってきた電車は,205系T11編成. 鶴見方がクモハ204-1101,中間がモハ205-26,そして浜川崎方がクハ205-1101だった.
鶴見駅に進入する205系T11編成.この線の来歴を知らなくても,“国鉄”の駅には見えないだろう,独特の空気がある.
途中の鶴見小野では満開のサルスベリを愛で,弁天橋では居並ぶ205系を眺めつつ浅野へ.
8年前と変わりはない…ように見えるが駅名表示の看板が新しくなっている.そして飲料水の自動販売機が簡易改札機の横に移動した.そして画面には見えないが,切符の自動販売機が撤去されていた.
海芝浦行きホームの上屋.ただ自然に時が流れ,ウェザリングが進化していた.
しばらく待っていたら,海芝浦行きが姿を見せた.8年前と比べれば,夏とはいえ線路上が草生しているのが大きな変化.8年前も夏だったわけだが.背景では,工場が建て直されて煙突が姿を消していた.
浜川崎行きのホームから鶴見方向を見る.画面右端,信号機の左側奥には弁天橋のホームが見える.左側の空き地……には側線が敷かれている,はず,なのだが,レールは全く見えない.でも,剥がされているわけではなさそうである.
浜川崎方面には,電車の通る2本のほかにもう1本,貨物用の線路がある.定期貨物列車がなくなってからも,特大貨物などに使われていたのだが,気がつけば,枕木様の角材が渡されていて“通せんぼ”.廃止ではなく休止ということか?
隣の安善では米軍タンク車が変わらずたむろしているのを見て安心し,武蔵白石の分岐も改めて確認し,そして浜川崎着.
道を隔てた南武線浜川崎支線の駅本屋の上には,変わらず高架線がそびえていた.画面右上端,路盤上に生えた木は,いよいよ背が伸びたように思える.
ホームで待っていたのは205系“1”編成.クモハ205-1001とクモハ204-1001だった.
この205系1000番代,合計3編成あるが,投入されるE127系は2編成である.どうするのだろうか…….当面は1編成が残ることになるようだが.
もうひとつ,待っていたのが,これ.もう何十年,ここに鎮座しているだろうか.
残念なことに,富士重工の銘板は脱落してしまったようである.ちなみに同社のTMC200A,昭和41/1966年2月製,製造番号39である.“大船保線区 404”という標記も,塗りつぶされ……ということは手入れされてる?
思いついて,もしかしたらと帰宅後に国土地理院の空中写真閲覧サービスで検索してみたら……
1988年2月16日撮影の浜川崎付近写真(整理番号KT874X)に,それらしき物体が.その前,1984年12月3日に撮影の写真には,ない.掲載に際しては拡大,トリミングを行なっている.写真:国土地理院
なんと35年も眠っている…いやこの時点ではまだ現役だったのかもしれないけれど.
そして尻手へ,武蔵中原へ.尻手ではE233の離合を見ることができた.
ということで,ほんの2時間ほどの散歩だったのに,たくさんの写真と長い文章になってしまいました.