JR東日本の三鷹電車区…三鷹車両センターと中央本線を跨ぐ跨線橋(人道橋)が廃止となって解体されるという.
東京圏での新聞やTVの報道では,太宰 治が愛用(?)していたとかしていないとか.僕は残念ながら太宰のことは門外漢なので,全く知らない.思い出すのは,トリオ商会である.
月刊とれいんが始まった頃,一所懸命セールスして広告をいただいたのだけれど,その条件が,毎月写真を取り替えるから,そのサンプルを取りに来て欲しい……だった.当時は,若かった(23歳!)こともあって,広告を頂けるならと,ほかにも何軒か,同じような条件で契約していただいていたお店があった.思い返してみれば,記事の執筆や模型製作,実物の撮影取材,模型の撮影などの合間に……いや,本屋さんや模型店への販売営業活動も,大切な仕事だった.よくもまぁ,そんな暇があったものだと感心してしまう.どうやって,やりくりしていたのだろうか.
まぁ,基本的には,やっぱり,今より若かったのだろう.
閑話休題
三鷹の跨線橋である.
線路の北側から見た,ほぼ全景.ほとんどの場合,電車区の留置線に電車がいるから,本当の全体を見渡すことはできない.
毎月通ったトリオ商会がどこにあったかといえば……
中央本線の北側,跨線橋の三鷹駅寄り,線路沿いの道が,左からやっきた道と交わる手前,横断歩道の存在を示すふたつの菱形マークのあいだあたりだっただろうか.
この跨線橋,三鷹電車庫が中野電車区の分庫として新設された昭和4/1929年のことだという.きっとそれまでは,普通に踏切があったのだろうか……
陸軍が撮影した,撮影年代不詳の空中写真が国土地理院から公開されているが,周辺は,畑地が見えるものの,既に住宅が建ち並んでいる.それなりに人の往来があったかもしれない.
東京圏での新聞やTVの報道では,太宰 治が愛用(?)していたとかしていないとか.僕は残念ながら太宰のことは門外漢なので,全く知らない.思い出すのは,トリオ商会である.
月刊とれいんが始まった頃,一所懸命セールスして広告をいただいたのだけれど,その条件が,毎月写真を取り替えるから,そのサンプルを取りに来て欲しい……だった.当時は,若かった(23歳!)こともあって,広告を頂けるならと,ほかにも何軒か,同じような条件で契約していただいていたお店があった.思い返してみれば,記事の執筆や模型製作,実物の撮影取材,模型の撮影などの合間に……いや,本屋さんや模型店への販売営業活動も,大切な仕事だった.よくもまぁ,そんな暇があったものだと感心してしまう.どうやって,やりくりしていたのだろうか.
まぁ,基本的には,やっぱり,今より若かったのだろう.
閑話休題
三鷹の跨線橋である.
線路の北側から見た,ほぼ全景.ほとんどの場合,電車区の留置線に電車がいるから,本当の全体を見渡すことはできない.
毎月通ったトリオ商会がどこにあったかといえば……
中央本線の北側,跨線橋の三鷹駅寄り,線路沿いの道が,左からやっきた道と交わる手前,横断歩道の存在を示すふたつの菱形マークのあいだあたりだっただろうか.
この跨線橋,三鷹電車庫が中野電車区の分庫として新設された昭和4/1929年のことだという.きっとそれまでは,普通に踏切があったのだろうか……
陸軍が撮影した,撮影年代不詳の空中写真が国土地理院から公開されているが,周辺は,畑地が見えるものの,既に住宅が建ち並んでいる.それなりに人の往来があったかもしれない.
ここに掲載していた写真は,三鷹駅の東方,吉祥寺駅との間を示していることが判明したので削除しました.撮影時期も,三鷹電車庫設立以後であるだろうことも,絶対ではありませんが,ほぼ確定的です.同じような西北西から東南東への道があることに惑わされました.当該写真に写っている,その道は,今の井の頭通りと思われます.そのようなことで,三鷹電車庫設立以前の空中写真は,ぼくにはまだ見いだせてません.2023.12.11
そして2023年10月18日.豊田車両センターでE233系2階建グリーン車撮影の帰途,立ち寄ったものである.ずっとずっと“いつかは撮っておかねば”と思いつつ果たせなかったのだけれど,ようやく,しかし最後のチャンスが巡ってきたわけである.
多くの部材が古レールであることは,トリオ商会を訪問していた時代から気づいてはいたのだけれど,じっくり調べることもなく,半世紀近い時間が流れ……ペイントはすっかり厚くなっていて,銘はほとんど読み取ることができなかった.ただ,北側の階段脇の支柱に“DICK KERR SANDBRER C D 1911”を見出しただけだった.
“DICK KERR SANDBRER C D 1911”の銘.
さて,ディック・カー=デッカーといえば英国の電機メーカーである.ED17などでお馴染みの方も多いだろう.そのデッカーがレールを? というのは当然の疑問だが,いつもの“古レールのページ”で検索してみたら……
ドイツ・カイザー(Gewerkschaft Deutscher Kaiser)
という答が出てきた.デッカーは,カイザー社で製造されたレールの販売を仲介していたため,という説明がある.上信電鉄の下仁田や琴電琴平にあったが,三鷹との同じ銘があるのは岡谷と酒折だそうだ.現存するのだろうか.
橋脚である.この辺りの銘も確かめてみたいものではあるが.
中央本線の南側.袂には空地があり,ベンチも用意されている.そして線路に沿った道の名前は“電車庫通り”.取材のために三鷹電車区と駅の間を往復するたびに“写そう”と思いつつ,実行したのはこの日が最初.もっともこの標識はなくなってしまうわけではなさそうだが.
三鷹市が設置した説明板.ヒビがひどくて判読しづらいが,跨線橋を渡る太宰 治の写真も添えられている.
この跨線橋を,きょうになって紹介した理由,それは三鷹市の告知を見たから.渡り納めが12月15日から17日に実施されるが,自由に通行することができるのは12月10日限りだという.
僕はこの訪問日が渡り納めになりそうだ.
※2023.12.11:西 和之さんから古い方の空中写真についてご指摘をいただきました.確認の結果,三鷹電車庫上空ではないことが判明したので,当該写真を削除しました.
※2023.12.12:一部語句追加