大阪に住んでいた頃は,京都が大好きで平日休日,そして季節を問わず,よく遊びに行った.あてもなく歩いていて行き当たったお寺さんを訪ねるということも,しばしばであった.有名社寺にはそれほど関心がなかったらしく,清水の舞台もあがった記憶が,あまり,ない……なんちゅう,ひねた高校生だったのか…….
東京に住みはじめてからは,用事のある時しか行かず,しかも時間の余裕がないことがほとんどで,お寺さんめぐりなど,縁のないことおびただしい歳月が流れた.
それが,昨年の12月,たった1泊の,さらにそのうちの半日だけではあったものの,京都市内をうろつく機会が与えられた.今日はその時の,“京都寸見行”である.
この日乗った東海道新幹線の列車は,東京駅9時3分発の“ひかり505号”.各地で車両基地などを眺めることができる山側の席は予約時には満席,海側となった.
車両基地はなくとも,並行する東海道本線の列車を眺めるのは楽しい.三島の駅の手前ではEF210の100番代が牽く貨物列車と併走した.その後も福山通運の専用列車などとのランデブーを楽しむことができた.写真を撮ることができたのは,最初の1本だけだったが.
さて京都.最初はマツモト模型を表敬訪問.
とれいんが始まって間もない頃に新築された店舗も,若奥さんも当時と変らない佇まいであった.
当時の京都市内では異例のモダン建築.阪神電車の“喫茶店”を彷彿させる入口ドアの手摺がお洒落.本誌主催の作品コンテスト展示会会場として使われていただいたのは昭和54/1979年のことだったろうか.会期中ずっと会場で店番をしながら,さまざまなモデラーとお話できたのは,いまでも忘れられない体験である.
マツモト模型から出町柳方面に抜ける途中の枡形出町商店街.道の両側の建物こそ新しくなっているけれど,賑わいがかつてと変わらないことに,ちょっとほっとしたことであった.昔から営業している食堂でお昼を食べようと思っていたのに,怖気づくほどの大行列だったのは計算外であった.
叡電の駅前に見つけた洋食屋さんで,遅い昼ご飯を済ませ,地下へ潜る.叡電の客となるには,少々時間が足りなかった.残念.
折しもやってきたのは8008編成の特急.いまや京阪特急も2扉車とは限らないから,これはラッキーなことであった.乗るのはたったふた駅,四条いや祇園四条か……までだが.
日本一豪華なロングシートといわれる,リニューアル後の京阪8000系車端部.
8000系という電車,誕生したのは平成元/1989年の誕生だから,もう34年が経過している.2階建車の組み込みや内装のリニューアル,塗色変更などを経てはいるものの,端正な顔立ちに変りはない.元デザインがしっかりしていることの,証しだろう.
四条を降りれば市電との交叉が……なんてのは,何十年前のことか.その取り合わせを撮りたくて高島屋の屋上へ上がった話は,本誌の2021年12月号Coffee Cupに記した.
いまでは市電はおろか,京阪電車も地上にはない.市電とともに,恰好の取り合わせだった南座と菊水,そして鴨川対岸にある東華菜館の建物だけは変らない.
今回,12月の京都へ行くことが決まった時,楽しみにしていたことのひとつが,“まねきあげ”.かつては12月に入ったら,なんとなく眺めていたものだが.この日,僕がまねきあげを見上げていた同じ頃,清水寺では“今年の漢字”が発表されていたそうだが,それは夜になって知ったこと.
なにしろ東京に住みはじめてからは,そんなに都合よく年末の京都など訪問できるわけもない.何十年ぶりかで,しばし眺めた.今回の最大の注目点は左下,市川團十郎.海老蔵からの十三代襲名披露公演だそうである.その右の市川新之助,市川ぼたんは團十郎の子供たち…などということは,いまさら僕が説明する必要はなかろうが.
別に歌舞伎に興味があったわけではない.ただ,華やかさが好きだったというだけ.まさか,南座に縁の深い杵屋栄二さんとお知り合いになることができるだなんて,その頃は夢にも思わなかった.
杵屋さんといえば,この南座の中から撮影された京阪の“びわこ”が有名だけれど,僕が高校生の頃にはそんなアングル,望むべくもなかった.今は鰊そばの松葉屋が北西角を占めているから,撮れそうなものだけれど,そこから見た京阪電車や京都市電の写真は,見た記憶が,ない.少なくとも福田静二さんがレイルNo.80(ちなみに在庫僅少)で纏めてくださった“街とともに 在りし日の京都市電を偲ぶ”には登場しない.僕がはじめて鰊そばを食べたのは,南座に向かって左側の袖だった記憶もあるのだけれど,記憶違いかもしれない.※末尾に追記あり
四条では趣味の大先輩と,何年ぶりかでお目に掛かる約束をしていた.“お茶でも”と入ったお店が,ここ.昔から続く喫茶店で名前の“築地”は,初見の方には驚かれるだろうが,開業は昭和初期という.このあたり,ほかにも“フランソア”とか“ソワレ”など,昭和40年代にして既に古色蒼然だったお店が何軒かあって,時間があり懐が許せば立ち寄っていた.不良高校生だったかもしれない.
築地の店の構えとその前の路地.50年前の高校生には,日が暮れてからこの界隈にやってくる勇気はなかった.
大先輩の,矍鑠たる様子に安心して,周囲の建物の様子がすっかり変ってしまった四条河原町の交叉点で別れた後,再び地下へ潜る.
阪急の特急を待っていたら,姿を現わしたのは9300系のトップナンバーだった.
なにやらヘッドマークを取り付けている.停車してから文字を読んでみたら“20th anniversary 9300 Series SINCE 2003”とあった.もう20年が経ったのか.
20年を経過したとは思えない,手入れのよい客室.しかしこれも,新2300系の登場により,今年の夏からは優等列車からの引退が始まる.室内にもヘッドマークと同じデザインのプラックが貼られていた.
京阪8000系に比べればまだまだ若いけれど.昭和20年代から40年代に掛けての世代交代サイクルに比べれば,ずっと長い.6300系と9300系間には28年が経っていいるが,2800系と6300系との間は,存外に短い.
降り立ったのは,新京阪鉄道時代に京都側の玄関口だった大宮駅.写真は対面にある京福電車四条大宮駅.阪急の駅が昭和43/1968年の竣工であるのに対して,こちらは昭和61/1986年に新築された建物.ぱっと見た目には生命保険会社のビルにしか見えない.かつてはこの通りにも市電が走っていて交叉していた.
と,書き進んで行ったら,ほんの半日のできごとなのに,あっという間に長くなってしまった.ほかにもまだまだ市内で発見したことや,再確認した“京電”時代の名残りなどあるのだけれど,それはまた次の機会のお楽しみ.
東京に住みはじめてからは,用事のある時しか行かず,しかも時間の余裕がないことがほとんどで,お寺さんめぐりなど,縁のないことおびただしい歳月が流れた.
それが,昨年の12月,たった1泊の,さらにそのうちの半日だけではあったものの,京都市内をうろつく機会が与えられた.今日はその時の,“京都寸見行”である.
この日乗った東海道新幹線の列車は,東京駅9時3分発の“ひかり505号”.各地で車両基地などを眺めることができる山側の席は予約時には満席,海側となった.
車両基地はなくとも,並行する東海道本線の列車を眺めるのは楽しい.三島の駅の手前ではEF210の100番代が牽く貨物列車と併走した.その後も福山通運の専用列車などとのランデブーを楽しむことができた.写真を撮ることができたのは,最初の1本だけだったが.
さて京都.最初はマツモト模型を表敬訪問.
とれいんが始まって間もない頃に新築された店舗も,若奥さんも当時と変らない佇まいであった.
当時の京都市内では異例のモダン建築.阪神電車の“喫茶店”を彷彿させる入口ドアの手摺がお洒落.本誌主催の作品コンテスト展示会会場として使われていただいたのは昭和54/1979年のことだったろうか.会期中ずっと会場で店番をしながら,さまざまなモデラーとお話できたのは,いまでも忘れられない体験である.
マツモト模型から出町柳方面に抜ける途中の枡形出町商店街.道の両側の建物こそ新しくなっているけれど,賑わいがかつてと変わらないことに,ちょっとほっとしたことであった.昔から営業している食堂でお昼を食べようと思っていたのに,怖気づくほどの大行列だったのは計算外であった.
叡電の駅前に見つけた洋食屋さんで,遅い昼ご飯を済ませ,地下へ潜る.叡電の客となるには,少々時間が足りなかった.残念.
折しもやってきたのは8008編成の特急.いまや京阪特急も2扉車とは限らないから,これはラッキーなことであった.乗るのはたったふた駅,四条いや祇園四条か……までだが.
日本一豪華なロングシートといわれる,リニューアル後の京阪8000系車端部.
8000系という電車,誕生したのは平成元/1989年の誕生だから,もう34年が経過している.2階建車の組み込みや内装のリニューアル,塗色変更などを経てはいるものの,端正な顔立ちに変りはない.元デザインがしっかりしていることの,証しだろう.
四条を降りれば市電との交叉が……なんてのは,何十年前のことか.その取り合わせを撮りたくて高島屋の屋上へ上がった話は,本誌の2021年12月号Coffee Cupに記した.
いまでは市電はおろか,京阪電車も地上にはない.市電とともに,恰好の取り合わせだった南座と菊水,そして鴨川対岸にある東華菜館の建物だけは変らない.
今回,12月の京都へ行くことが決まった時,楽しみにしていたことのひとつが,“まねきあげ”.かつては12月に入ったら,なんとなく眺めていたものだが.この日,僕がまねきあげを見上げていた同じ頃,清水寺では“今年の漢字”が発表されていたそうだが,それは夜になって知ったこと.
なにしろ東京に住みはじめてからは,そんなに都合よく年末の京都など訪問できるわけもない.何十年ぶりかで,しばし眺めた.今回の最大の注目点は左下,市川團十郎.海老蔵からの十三代襲名披露公演だそうである.その右の市川新之助,市川ぼたんは團十郎の子供たち…などということは,いまさら僕が説明する必要はなかろうが.
別に歌舞伎に興味があったわけではない.ただ,華やかさが好きだったというだけ.まさか,南座に縁の深い杵屋栄二さんとお知り合いになることができるだなんて,その頃は夢にも思わなかった.
杵屋さんといえば,この南座の中から撮影された京阪の“びわこ”が有名だけれど,僕が高校生の頃にはそんなアングル,望むべくもなかった.今は鰊そばの松葉屋が北西角を占めているから,撮れそうなものだけれど,そこから見た京阪電車や京都市電の写真は,見た記憶が,ない.少なくとも福田静二さんがレイルNo.80(ちなみに在庫僅少)で纏めてくださった“街とともに 在りし日の京都市電を偲ぶ”には登場しない.僕がはじめて鰊そばを食べたのは,南座に向かって左側の袖だった記憶もあるのだけれど,記憶違いかもしれない.※末尾に追記あり
四条では趣味の大先輩と,何年ぶりかでお目に掛かる約束をしていた.“お茶でも”と入ったお店が,ここ.昔から続く喫茶店で名前の“築地”は,初見の方には驚かれるだろうが,開業は昭和初期という.このあたり,ほかにも“フランソア”とか“ソワレ”など,昭和40年代にして既に古色蒼然だったお店が何軒かあって,時間があり懐が許せば立ち寄っていた.不良高校生だったかもしれない.
大先輩の,矍鑠たる様子に安心して,周囲の建物の様子がすっかり変ってしまった四条河原町の交叉点で別れた後,再び地下へ潜る.
阪急の特急を待っていたら,姿を現わしたのは9300系のトップナンバーだった.
なにやらヘッドマークを取り付けている.停車してから文字を読んでみたら“20th anniversary 9300 Series SINCE 2003”とあった.もう20年が経ったのか.
20年を経過したとは思えない,手入れのよい客室.しかしこれも,新2300系の登場により,今年の夏からは優等列車からの引退が始まる.室内にもヘッドマークと同じデザインのプラックが貼られていた.
京阪8000系に比べればまだまだ若いけれど.昭和20年代から40年代に掛けての世代交代サイクルに比べれば,ずっと長い.6300系と9300系間には28年が経っていいるが,2800系と6300系との間は,存外に短い.
降り立ったのは,新京阪鉄道時代に京都側の玄関口だった大宮駅.写真は対面にある京福電車四条大宮駅.阪急の駅が昭和43/1968年の竣工であるのに対して,こちらは昭和61/1986年に新築された建物.ぱっと見た目には生命保険会社のビルにしか見えない.かつてはこの通りにも市電が走っていて交叉していた.
と,書き進んで行ったら,ほんの半日のできごとなのに,あっという間に長くなってしまった.ほかにもまだまだ市内で発見したことや,再確認した“京電”時代の名残りなどあるのだけれど,それはまた次の機会のお楽しみ.
※2024.01.12追記:南座のそば屋,松葉の位置について,福田静二さんから“市電が走ってた頃から今と同じ位置だったですよ”と,写真が寄せられた.ただ,写真を見ると,南座とは別棟となっているその建物は,今とは形が違って,2階の窓は小さい.だから,そこから写真を……とは思いつかなかったのかもしれない.あるいは試みた方もあったかもしれないが,見通しはそれほどよくなかったのだろう.