6月29日の阪急2300系撮影取材を終えた僕,どうやって帰ろうかと思案した末に決めたのが,北陸廻りだった.
北陸廻りで一周というのは,昨年2月の福井鉄道F2000形お披露目の時にも,東京から米原経由“しらさぎ”で敢行した.新幹線はまだ金沢までしか達していなかったから,“北陸本線”としての敦賀-金沢間を体験しておこうという目論見.その時の話題は……と思ってブログを読み返してみたのだけれど,どうやら,“つもり”になっていただけで,まだお話しておらず,5月4日付のここで,“もしかしたら最後になるかもしれない,北陸本線としての敦賀と福井の間の車窓風景を,じっくりと観察…いや,“垣間”見ることができた.”と触れているだけだった.
それから1年とちょっと.北陸新幹線敦賀区間は無事に開業し,福井県内の北陸本線は大部分が“ハピラインふくい”という第三セクター路線に転換された.
今回は,乗り換えポイントとなった敦賀駅を体験するのが最大の目的.もちろん,新しく開業した新幹線区間の観察というのも,大いなる目的ではある.さらに付け加えれば,長らく沿線観察から遠ざかっていた湖西線の様子も眺めてみたかった.
乗ったのは京都発14時40分予定の“サンダーバート27号”.このホームが0番線というのは,僕には,まだ少し違和感が残る.
やってきたのは683系の9輛編成.先頭のクロ683は貫通タイプながら扉は埋め込み.僕が割り当てられた座席はサハ683-4711だった.
乗ってすぐに気づいたのが,敦賀駅での乗り換え要領を図示した案内.
新幹線の敦賀駅が,在来線の駅から見れば高層ビルのように高い位置にあることは,昨年の旅に際して確認していた.だから乗り換えは手間を要するだろうとは,誰しもが思っていたこと.JR西日本自身だって例外ではなく,開業の直前には社員を動員して乗り換えのシミュレーションを実施している.
さて実際は?を確かめるのが,最初にも記した通り,今回の“旅”の目的の一つなのだ.
東山トンネルを抜けると山科の大カーブ.駅を通過したら逢坂山トンネルに入って東海道本線とはお別れである.
和邇,蓬莱,志賀,比良……風による運転規制を回避するため,10年ほど前に設けられた防風柵は,反対側の座席からも窓越しに見えるほどに背が高い.何ヵ所もの撮影好適地が失われてしまった.しかし北小松から近江高島にかけてには設けられておらず,琵琶湖側の風情も,485系“スーパー雷鳥”を追った30年前と大きくは変化していなかった.
近江塩津で北陸本線と合流し,そろそろ敦賀第二機関区……と狙いを定めたつもりで撮影したカット.実際にはあと数百メートル進行した辺りだった…….この写真の右端に見える留置線は,新幹線の車庫である白山総合車両所敦賀支所である.
列車内では,湖西線を走行中から数分の遅れがアナウンスされていた.遅れの案内とともに,すぐに接続する“つるぎ28号”は遅れに対応して待機させているから,とも案内されていた.なにしろ所定で15時33分着の15時41分発だから,5分の遅れでも致命的である.全ての接続についてこのような対応をしているのかどうかは不明だが,なにしろ始発駅なのだから,比較的容易なことではなかろうか.逆方向の新幹線から在来線への接続も,しかり.
そして到着した敦賀駅.このカットを撮影した時のカメラ内蔵時計では5分遅れの15時38分だった.
コンコース.すぐに乗り換えるならば画面左に進んで11~14番線に向かうわけだが,僕は“西口”へ.
そして降り立った敦賀駅前広場.50年前に降りた時の記憶(とれいん2024年4月号のCoffee Cupに記した)は,まったく蘇らなかった.
駅前に出てきた目的のひとつが,これ.背後にそびえるのが新幹線敦賀駅
近づいてみる.碑に“交流電化發(正確には異体字のようである)祥之地”とある.
最初に国鉄本線で交流電気運転が実施されたのは仙山線なのだが,ここでいう“発祥”は,“実用化”という意味付けである.昭和33/1958年5月に敦賀第二機関区構内に建立されたのだが,組織改編などによって移設の要が発生し,今年2月,クラウドファンディングで得られた資金によって駅前に移動してきたものである.
右隣の動輪は29600のもので,昭和57/1982年に敦賀駅開業百周年を記念して設置されたものとのこと.交流電化發祥の地の碑よりはずっとずっと先輩ということになる.ちなみに同じ29600の動輪は,新大阪駅コンコースにも保存されている.
さて長くなった.敦賀駅在来線ホームの様子や,新幹線への乗り換えの実際は,次回(来週とは限らない)のお楽しみ!
北陸廻りで一周というのは,昨年2月の福井鉄道F2000形お披露目の時にも,東京から米原経由“しらさぎ”で敢行した.新幹線はまだ金沢までしか達していなかったから,“北陸本線”としての敦賀-金沢間を体験しておこうという目論見.その時の話題は……と思ってブログを読み返してみたのだけれど,どうやら,“つもり”になっていただけで,まだお話しておらず,5月4日付のここで,“もしかしたら最後になるかもしれない,北陸本線としての敦賀と福井の間の車窓風景を,じっくりと観察…いや,“垣間”見ることができた.”と触れているだけだった.
それから1年とちょっと.北陸新幹線敦賀区間は無事に開業し,福井県内の北陸本線は大部分が“ハピラインふくい”という第三セクター路線に転換された.
今回は,乗り換えポイントとなった敦賀駅を体験するのが最大の目的.もちろん,新しく開業した新幹線区間の観察というのも,大いなる目的ではある.さらに付け加えれば,長らく沿線観察から遠ざかっていた湖西線の様子も眺めてみたかった.
乗ったのは京都発14時40分予定の“サンダーバート27号”.このホームが0番線というのは,僕には,まだ少し違和感が残る.
やってきたのは683系の9輛編成.先頭のクロ683は貫通タイプながら扉は埋め込み.僕が割り当てられた座席はサハ683-4711だった.
乗ってすぐに気づいたのが,敦賀駅での乗り換え要領を図示した案内.
新幹線の敦賀駅が,在来線の駅から見れば高層ビルのように高い位置にあることは,昨年の旅に際して確認していた.だから乗り換えは手間を要するだろうとは,誰しもが思っていたこと.JR西日本自身だって例外ではなく,開業の直前には社員を動員して乗り換えのシミュレーションを実施している.
さて実際は?を確かめるのが,最初にも記した通り,今回の“旅”の目的の一つなのだ.
東山トンネルを抜けると山科の大カーブ.駅を通過したら逢坂山トンネルに入って東海道本線とはお別れである.
和邇,蓬莱,志賀,比良……風による運転規制を回避するため,10年ほど前に設けられた防風柵は,反対側の座席からも窓越しに見えるほどに背が高い.何ヵ所もの撮影好適地が失われてしまった.しかし北小松から近江高島にかけてには設けられておらず,琵琶湖側の風情も,485系“スーパー雷鳥”を追った30年前と大きくは変化していなかった.
近江塩津で北陸本線と合流し,そろそろ敦賀第二機関区……と狙いを定めたつもりで撮影したカット.実際にはあと数百メートル進行した辺りだった…….この写真の右端に見える留置線は,新幹線の車庫である白山総合車両所敦賀支所である.
列車内では,湖西線を走行中から数分の遅れがアナウンスされていた.遅れの案内とともに,すぐに接続する“つるぎ28号”は遅れに対応して待機させているから,とも案内されていた.なにしろ所定で15時33分着の15時41分発だから,5分の遅れでも致命的である.全ての接続についてこのような対応をしているのかどうかは不明だが,なにしろ始発駅なのだから,比較的容易なことではなかろうか.逆方向の新幹線から在来線への接続も,しかり.
そして到着した敦賀駅.このカットを撮影した時のカメラ内蔵時計では5分遅れの15時38分だった.
コンコース.すぐに乗り換えるならば画面左に進んで11~14番線に向かうわけだが,僕は“西口”へ.
そして降り立った敦賀駅前広場.50年前に降りた時の記憶(とれいん2024年4月号のCoffee Cupに記した)は,まったく蘇らなかった.
駅前に出てきた目的のひとつが,これ.背後にそびえるのが新幹線敦賀駅
近づいてみる.碑に“交流電化發(正確には異体字のようである)祥之地”とある.
最初に国鉄本線で交流電気運転が実施されたのは仙山線なのだが,ここでいう“発祥”は,“実用化”という意味付けである.昭和33/1958年5月に敦賀第二機関区構内に建立されたのだが,組織改編などによって移設の要が発生し,今年2月,クラウドファンディングで得られた資金によって駅前に移動してきたものである.
右隣の動輪は29600のもので,昭和57/1982年に敦賀駅開業百周年を記念して設置されたものとのこと.交流電化發祥の地の碑よりはずっとずっと先輩ということになる.ちなみに同じ29600の動輪は,新大阪駅コンコースにも保存されている.
さて長くなった.敦賀駅在来線ホームの様子や,新幹線への乗り換えの実際は,次回(来週とは限らない)のお楽しみ!