おかげさまで“京阪ロマンスカー史(上)”はご好評をいただき,本日現在では版元品切れという状態.大急ぎで追加手配したので,再来週にはご予約の方々のお手元に届くし,店頭にも再び並ぶと思う.しばらくお待ちいただければ幸い.
さてその上巻の21頁下に,米本義之さん撮影の,702を先頭とする急行が天満橋に到着する写真が掲載されているのだが,画面の右端にはかろうじて大阪城の天守閣が写っている.それはいいのだが,気になっていたのが天守閣の手前の煉瓦造りの建物.

寝屋川を渡って天満橋駅に到着する702の急行.画面右端に大阪城天守閣と煉瓦造りの建物が見える.ここでは右側をノントリミングでお目に掛けるが,同行者らしき人影が写っている.当時仲間だった木村令英さんだろうか.昭和14/1939年4月9日 写真:米本義之(レイルNo.73 21頁より)
僕自身も,電車の窓から見えるこの建物は,子供のころから気になっていて,なんだろうと思ってはいたのだが,かといって特に調べもせずにいたものだから,写真の説明を記す時にも,なにも書くことができなかった.大阪城の東側に展開していた旧陸軍の砲兵工廠(造兵廠)か,他の陸軍に関係した建物だろうとは思いつつ.
砲兵工廠……親は専ら“造兵廠”と呼んでいた……の跡地は,京橋から天王寺方面行きの環状線電車に乗ると,進行右側の車窓に,イヤでも目に入ってきた.それはそれは広大な瓦礫の山.終戦の前日,昭和20/1945年8月14日の大空襲で焼き払われた状態がそのまま残っていたのではないかと思えるほどに.ちょうど小松左京が“日本アパッチ族”を上梓した頃の記憶である.
京阪ロマンスカー史の上巻ができあがって,京阪電車の本社にお礼にうかがった際,ほんの少しの時間を盗んで,ずっと気になっていたこの建物の探訪に出かけた次第.
米本さんの写真と同じアングルでの撮影は,今では不可能だから,建物そのものを訪問してみた.
天満橋駅から土佐堀通りを東へ進み,京阪電車と並行した寝屋川橋を渡って右へ.もう一度寝屋川を渡るのが京橋で,その先に“筋鉄門(すじがねもん)跡”という説明板があった.そこに,“軍事工場(大阪砲兵工廠)の正門となり…”という一節があって,ほぼ正解に辿り着いたのだった.けれども,今に残る煉瓦造りの立派な建物と,付属する,壊れかけた煉瓦造りの建物に関する説明は全くなくて,解明は,夜,宿に戻ってインターネットに接続するまで持ち越されたのだった.

京橋から見た,問題の建物と大阪城天守閣.結果的には米本さんの写真と似たようなアングルで撮影できた.
答えはすぐに,まったくあっけなく出てきてしまった.“化学分析場”だったというのである.本部の建物は,約30年前に解体されてしまって現存しないという.跡地は今の大阪城ホールらしい.残念ながら,本部の建物の記憶は,僕にはない.“造兵廠の周囲には近づくな”と,きつくいわれていたから.なにしろ“アパッチ族”の本拠地だったのだから.
“アパッチ族”ってなに?と,興味を持たれた方は,ぜひ小説を……光文社も角川も,残念ながら品切れ状態のようだが.

こちらが表.建物には近づけないようにバリケードが築かれているが,一部は新聞社の配送トラック駐車場として使われているようだ.
