なんだか無関係な言葉を並べたような題名だが,実は全部繋がっている.
 きのう,おすそ分けで二十世紀梨をいただいた.折りしも数日前に,家で“そういや梨の季節だけど,二十世紀梨って久しく食べてないなぁ”と話題になったばかり.なんという偶然.
 僕が子供の頃の大阪では,梨といえば二十世紀(廿世紀とも書いた)に決まっていた.もちろん鳥取産.長十郎も出まわっていたと思うが,我が家ではもっぱら二十世紀であった.それが,東京に住むようになったら,店で売っているのは色の違う梨ばかり.食べてみても,甘いのはいいけれど,あの“しゃりしゃりっ”という歯ごたえが弱くて,僕の口には物足りない.調べてみれば,関東での主流は幸水とか豊水という品種であって,そもそも同じ梨でも系列が違うのだそうだ.そりゃあ,見た目も味も,違っていて当たり前である.
 同じ時,“へぇ~”と思ったのは,二十世紀梨の発祥の地が鳥取ではなくて千葉の松戸だったという事実.そういわれてみれば,高松吉太郎さんが一時期住んでおられた新京成沿線のお宅を訪問する時の車窓は,一面の梨園であった.なるほどね,である.
 ところがいまや,その松戸では二十世紀梨はほとんど栽培されていないそうだ.近所の果物屋に売っていなくて,当たり前ではないか.

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久し振りに見た,二十世紀梨の神々しい姿(大げさ).この色と艶があってこそ,初めて梨を名乗ることができるのである.背景のネガケースの中身は後述.

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“しゃきしゃきっ”というか“つぶつぶっ”というか,あの歯ごたえがあってこその梨だと思っている僕である.この写真を撮影するやいなや,器が空っぽになったのはいうまでもない.

そうやって,本当に久し振りの二十世紀梨を前にしている時,突然頭の中に40年前の情景が蘇った.それは,大阪駅に,朝のラッシュが終わった頃に到着し,停車中のC57である.後ろには何輛かの荷物車を従えており,ホームには,大量の段ボール箱が次々と降ろされているである.
 当時,荷物車だけの列車といえば,東海道本線と山陽本線でEF58が牽く列車か,そうでなければ,関西本線の奈良と湊町の間を,C58と数輛の荷物車で頻繁に運転されていた列車しか知らなかったし,僕の廻りには存在していなかった.それが,9月の声を聞くとともに,このC57の牽く荷物列車が一時的に現れて,またすぐに姿を消すのであった.

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無事に到着して一息つくC57と機関士.後方では大量の段ボール箱をおろすのに大童.大阪駅9番線.

で,この段ボール箱の中身こそ二十世紀梨なのである.まだ宅配便などというシステムが影も形もなかったあの頃,鳥取県内の農家は,都会地からの個人的な注文品をこの荷物列車に託したのだった.定期の貨物列車や旅客列車に併結の荷物車ではまかない切れず,臨時列車が設定されていたのだろう.鉄道関係者の間では“ナシ臨”と呼ばれていたと聞く.山陰本線で京都に到着する列車もあったのではないだろうか.
 しかしこの列車,僕が撮影の対象とした昭和44/1969年でこそ,大阪駅には既に定期運用での蒸気牽引列車がなかったから珍しい存在といえたのだが,つい1年半前までは,普通列車ながらC57の定期運用があったし,多客期には臨時急行もまだC57が牽引していた.だから,恐らくは“荷物列車なんて”と,ほとんど注目されていなかったはずである.
 ……と思いながらインターネット検索を試みたら,昭和44/1969年9月20日にC57 87が牽いていたという写真が出てきたし,翌年9月撮影というD51牽引貨物列車の写真も出てきた.沿線のファンの関心を,少しは惹いていたのだろうか.
 そして僕の写真.梨のバックにちらりと写っているネガケースに,44年9月18日という日付が記されている.ほぼ40年前,正確には39年11ヵ月と3週間前に撮影ということになる.

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復路は午後.尼崎で停車中の姿.特急だかの通過を待っていたのだろうか.この写真からは,荷物車の数は全部で5輛,そのうち1輛は新鋭のパレット荷物車スニ40であることがわかる.あとの4輛は判然としないがマニ60かマニ61ではないだろうか.

ちなみに,翌年以降の“梨臨”を撮影した記憶はない.阪神間から京阪沿線に引っ越したのがその理由である.“梨臨”をDD54やDD51が牽くことはあったのだろうか.そしていつごろまで続いたのだろうか…….
 たった1個の二十世紀梨から,調べなくてはならない事柄が,またひとつ増えた.